新型コロナ感染拡大初期の反応 -ペルー調査の経験と国内封鎖への対処-

2020年7月10日

古川 勇気(立命館大学衣笠総合研究機構、文化人類学、アンデス地域研究)

1.はじめに
南米ペルー共和国(以下、ペルー)の北部山岳地域カハマルカ県農村にて、2012年2月から断続的に約28か月間、現地の農民家庭で寝食を共にしてフィールドワークを行った。その後調査の成果を博士論文としてまとめたが、結局、2年近くフィールドから足が遠のいてしまった。そうした現地の農民家族との地理的、時間的距離が埋まるのか分からないまま、2020年2月にフィールド調査を再始動することができた。

以下では、フィールドの農民家族と私との関係を説明したうえで、現地での新型コロナ感染拡大の初期の反応を記述する。そして新型コロナ禍の影響を受けて、ペルー政府が国内封鎖を決めた3月16日の前夜に、逃げ出すかのように飛び出した当時を振り返る。最後に6月23日の新聞記事からペルーの感染状況に簡単に触れ、まとめたいと思う。

2.再びのフィールド調査
16世紀にスペイン人がラテンアメリカを征服する以前は、ペルーにはインカ帝国やそれ以前の数多くの文明が栄えていた。日本人観光客に人気の高いマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵などを残した文明である。観光地として有名なペルー南部のクスコでは、今でも多くの先住民が暮らしており、アンデス固有の儀礼や社会組織を維持している。他方、北部のカハマルカ県は先住民と白人の混血であるメスティーソと呼ばれる人が多く、また歴史的に人々が県外へ頻繁に移動していたため近代的な生活を送る農民が多い。特に、同県はスペイン人が持ち込んだ技術と食文化である酪農業が有名であり、多くの農民が生乳や乳製品を販売している。伝統的な農民像とは異なり、彼らは日常的に市場経済と関わり、その経済活動には収入を増やすための単純な収支計算が欠かせない。

私は、2012年8月頃からカハマルカ県山村で本格的な調査を始めた。酪農業を営む農民世帯を調査しようと考えていた私は、先行研究を頼りにペルー国内で活動するNGOのオフィスを訪ねた。山村でチーズ生産技術供与の農村開発を行っている開発支援者たちの助けを借りて、私はいくつかの農民家族と知り合った。彼らは周辺農民から生乳を回収して、自宅の製造所でチーズを生産している。私は、彼らの数世帯をまわって、世帯・家計調査や開発現場での参与観察を行った。彼らは、当初は私を「開発支援者の一員」と勘違いして少し距離のある付き合いをしていたが、1ヶ月ほど経つと、単なる「学生」であるという認識に変わり、私たちは気が置けない関係になった。農民グループのリーダーであるマイコル家族は特に親切にしてくれて、私は度々彼らにインタビュー調査を繰り返したり、彼らの生乳回収やチーズ作りの作業を手伝ったりした。私は、現地の家族とこうした親密な関係を築いたが、結局、博士論文執筆のために2年近くフィールドから遠のくこととなった。

2020年2月に、新たな研究をスタートさせる高揚感と現地の家族が当時と同じように迎えてくれるか分からないという不安とを抱えながら現地を訪れた。2月17日に再びマイコル家族を訪ねると、マイコルたちは、以前と同じように温かく歓迎してくれた。当時と変わらない出迎えで始まり、当時と同じ呼び方や話し方で会話がはずむにつれ、それまであった距離的、時間的隔たりや不安はすっかりどこかに行ってしまった。他方、変わったこともあり、当時は小学生だった子供たちが、青年となってチーズの生産作業を手伝っている姿は頼もしく見えた。再会を果たし、以前の調査での経験を思い出すとともに、新たな研究に関して身が引き締まる思いでもあった。

新たな研究の第一歩として、私は、山や丘、湖などの自然景観にまつわる民話や逸話の収集を行った。これは、マイコルたちが住む山村よりも広範囲な地域をめぐる調査であった。私は市街地で調査を手伝ってくれるガイドを得て、車を借りてGPS端末機器を持って様々な場所を巡った。その調査の途中、外国人であるアジア人が珍しいということと新型コロナのニュースが広まり始めていたことから、現地の人から偏見をもたれたり、不親切な対応をされたりした。以下には、その中の2つのエピソードを挙げる。

まずは2020年2月26日に、現地でカーニバルの祭り(謝肉祭)があり、私は広場で踊る人々を見ながらビールを数人で飲んでいた。現地には、コップに瓶ビールを注いで飲み、次の人にコップを回していくという、一つのコップを回し飲みする慣習があった。一緒に飲んでいた人が知り合いを連れてきて、その連れられてきた男が私を見て「コロナ~」と第一声を発した。周りの友人が、私はコロナとは関係ないと説明したが、彼は馬鹿にしたように「コロナ、コロナ」と叫び、ビールを飲まずに帰っていった。この頃、ペルー国内には新型コロナ感染者がおらず、それよりも中国をはじめとするアジアの感染者数の多さがニュースで報道されていたため、アジア人はコロナを持っているという偏見が強かった。もともとペルーの田舎には人の外見を嘲笑するある種のコミュニケーション様式があり、アジア人を見ると「チーノ(chino)」という中国人を意味する呼称を投げかけてくる。彼も冗談めいて「チーノ」の代わりに、「コロナ~」と呼びかけただけなのだろうが、結局、ビールを飲まなかったため、ある程度本気で感染リスクを警戒していたと思われる。

また2020年3月6日に、ペルーではヨーロッパ便で帰国した人から新型コロナが見つかり、国内で初めて感染者が確認されたというニュースが広まった。その次の日に、私はガイドと一緒にある小さい村を訪れた。村人に近くのインカ文明以前の時代の墓について尋ねていた時、一人の村人が私を見てこう言った。「街から遠く離れた村だから、新型コロナをとても怖れている。だから、村には入ってくるな」。それを聞いたガイドは、「彼はこの街に来て2週間以上経っている。コロナとは関係ない。それにコロナの問題は中国であって、彼は日本人だ」と説明した。それでも納得しない様子であったので、我々は墓の場所を訊いて早々に村を離れた。ガイドは私に「ここは田舎だから、中国と日本は別の国であることを知らないんだ」と詫びるように説明してくれた。ただ当時、日本はクルーズ船を含む国内感染者が1000人を超す状況にあり、ペルーから見ると圧倒的に感染リスクの高い国であった。

このような偏見や扱いは、外国人が珍しい田舎の小さい街だから顕著だったのだと思われる。そのような扱いを受けるたびに、私は苛立ち、不快感を募らせたが、近しい友人が私を守ってくれ、その優しさに救われてもいた。次第に人々が私の存在に違和感を感じなくなった頃、私は民話の収集作業に一区切りがつき、帰国のためにリマに戻ることになった。

現地では重要なワカ(Huaca:人工物を伴う自然景観)である「帽子山(Sombreruyo)」を訪れた際に地元の子供たちと撮った一枚(2020年2月19日古川勇気撮影)

3.国内封鎖前夜
2020年3月14日にリマに戻ると、空港やショッピングモールなどの人が集まる場所では、大型モニターで手洗いや咳エチケットを促す映像が流れていた。都市の生活様式が大きく変化していたが、感染リスクを警戒する態度は実質を伴っていないように見えた。なぜなら街中には、マスクを着けている人がほとんどいなかった。中国で感染拡大した当初に、ほとんどのマスクが中国に戻され、ペルー国内ではマスクを購入することが困難になっていた。国内産のマスクは50枚入り約4000円以上する割高のものであり、一般市民が気軽に購入できるようなものでなかった。

出国日は3月18日だったので、それまで大学や図書館を利用しようと思っていたが、閉鎖されていたためほとんどの時間を日本人の経営するペンションで過ごしていた。3月16日から15日間、外出制限が実施されるというニュースが広まっていた。私はペルーの外出制限をどこか他人事のように受けとめ、予定通り日本に帰る事ばかりを考えていた。そうした中、突如3月15日夜8時頃に、大使館から連絡を受けたペンションの人が「16日から陸・海・空のすべてを封鎖する国家緊急事態令が出された」と私に教えてくれた。私は、聞いた当初はパニックだった。決定があまりにも突然であり、どの程度実施されるのかは誰も分からなかったためである。旅行会社に連絡してみても、18日の便が飛ぶのかどうかさえ分からなかった。また、当時はペルー国内の感染者数が71人に対して日本は1500人を超えており、感染リスクは圧倒的に日本の方が高かった。

だが、このままいてはいつ帰れるか分からないという不安と、家族に会いたいという熱い思いから、私は今すぐに乗れる日本行きの別の便を探した。何とか空席のあった便は片道なのに往復と同じ価格(約28万円)であったが、慌てて購入の手続きを済ました。その時点で夜中の1時であり、あと3時間後に飛行機は飛び立つ。慌てて荷物をまとめて、ペンションの人への挨拶もそこそこにタクシーに飛び乗った。空港は混んでおり、出発の1時間弱前に何とか搭乗ゲートにたどり着いた。帰りの便は予定通り離陸し、順調に飛行して日本に到着した。着いた当初は、帰って来られた安堵と見えない感染リスクへの不安があったが、家に帰って家族に会った際には、あの時の後先を考えない即断は正しかったと実感するようになった。後々のネットニュースで、ペルー政府の国内封鎖があまりにも突然だったので、邦人約260人が取り残されたことを知った。当時は冷静さを欠いた慌てた決断に思えたが、現時点(2020年6月24日)で思い返すと、日本に帰る決断は正しかった。そう思えるほど、ラテンアメリカの感染状況は深刻なものになっていた。

4.おわりに
2020年6月23日の朝日新聞に、ペルー国内がホラー映画のような状況にあるという記事が載っていた。ペルー北部のピウラ県では一日約60人が死亡しており、死体が戸外に放置されている状況や飢えて死ぬ人も出ているという状況がホラーのようだという。こうした状況を伝えてくれた、日本を拠点とするペルー日系人の女性は、3月の段階で日本の方が、感染リスクが高いため帰国をためらい、今も不安を抱えながらペルーで生活していると述べている。現在ではリマが封鎖されており、闇営業のバスに乗って大使館の手配するチャーター便に乗る術はあるが、彼女は高額(約40万円)でとても帰国できないと悲嘆している。もし私が3月15日の夜にためらっていたら、最悪の場合、この記事の女性のような状況に置かれていたかも知れないと思うとぞっとしてしまった。

国内感染者数が少ない段階で国内封鎖や事実上のロックダウンをするなど、早くからペルー政府は対策を行っていたが、人々の外出を制限することは難しかった。人々は日常生活に欠かせない市場(いちば)や銀行などに多く集まり、そのため大規模なクラスター感染が起き、感染が爆発的に拡大した。2020年6月22日時点では、ペルー国内人口が約3200万人に対して感染者数は約25万人、死者数は約8千人であった。ペルーはマチュピチュ遺跡などに代表される観光地が多く、観光産業に大きく依存する国である。そのため、国内に再び多くの観光客を招き、以前のような経済状況に戻るためには、ペルー国内だけでなく世界中の国々での新型コロナ感染の鎮静化が望まれる。

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