混乱のイラン―滞在手記―

2020年8月21日

木下 実紀(大阪大学言語文化研究科博士後期課程、ペルシア文学)

はじめに
私はペルシア文学を専門とし、特に1906年に生起した立憲革命に至るまでの時期の文学に注目している。今回は、〈イラン立憲革命期の「翻案文学」に表出する知識人の文学的手法〉をテーマとし、研究指導を受け、資料収集を行うべく研究留学を行った。2019年10月~2020年3月という約半年の間には新型コロナウイルスの感染拡大以外にも様々な出来事が次々と起こり、私にとっては激動のイラン滞在となった。1979年のイスラーム革命以来最大の危機とも言われる状況となったイランについて、私が目の当たりにした様子を記したい。

感染者確認までのイラン情勢
感染者確認以前のイランは、すでに混乱状態にあった。まず、私が到着して1ヶ月が経った頃の11月にはガソリンの価格が3倍に値上げされた。これに抗議する人々が抗議デモを行うようになり、一部暴徒化した人々は銀行などを焼き討ちにするまでになった。政府はこのようなデモ活動を拡散するSNSを規制すべく、インターネットを2週間に渡り遮断した。突然インターネットが使えなくなるという事態に陥り、さらにインターネットが遮断された最初の日は季節外れの大雪まで降る始末であった。

そして、年明けの1月3日には、革命防衛隊のソレイマーニー司令官がイラクで米軍によって爆殺され、対米関係が過去最悪といえる状況となった。対米関係の悪化に伴い、日本の外務省発表の渡航危険レベルは3(渡航中止勧告)に引き上げられてしまった。さらに、イラン側の誤射によりウクライナ航空機が撃墜され、多数の死者を出すという惨事も発生した。

ソレイマーニー司令官暗殺後、およそ1ヶ月後に外務省発表の危険レベルが3から2に引き下げられた。これは1979年にイスラーム共和制になった革命記念日である2月11日を待ってから発表された。

緊張の緩和も束の間……
安堵していたのも束の間のことであった。それは2020年2月19日の夕方、イラン北部の都市であるタブリーズへ旅行をした帰りの寝台列車に乗っている時であった。とうとうイランに新型コロナウイルス感染者が出てしまったというニュースが報じられたのである。さらに、感染者は既に死亡しているということが明らかになった。イランと中国は経済的に強い結びつきがあり、ビジネスマンの往来が盛んであるため、早い段階で感染者がいるのではないかと思っていた。友人の間では感染者がいたとしても隠蔽しているであろうと話していた。ちょうど2月21日にイランの国会選挙があったため、それまではきっと感染者の情報は公開しないであろう、と。残念なことに、この予想はほぼ的中してしまった。この感染者の報告とその死亡が伝えられたのは、イランの国会選挙のキャンペーン期間が終わってすぐのことであった。イラン初の感染者が、テヘランに隣接する宗教都市コムから出たと報じられた時は非常に驚いた。偶然にもこの1ヶ月ほど前に、私はコムへの旅行をしていたためである。その後、コムを閉鎖すべきだという声が相次いで上がったものの、テヘランに最も近い宗教的都市であるためか実行されなかった。

コムのジャムキャラーンにて。
アメリカに対する復讐の意思を示すため、普段の黒ではなく
赤い旗が立てられている。(2020年1月19日木下実紀撮影)

知らせを受けた時に乗っていた寝台列車は4人用コンパートメントであった。途中から赤ん坊を連れた母親が乗車してきた。見送りにきた赤ん坊の祖父にあたる人が、私たちの顔を見て、引きつった顔をした。おそらく中国人旅行客だと思ったのであろうが、その表情は忘れられない。その後は、その母親とお喋りに花が咲いた。私達が日本人であることを知った母親が先ほどのおじいさんに電話をかけて、こちらの事情を話すと安心していたようだった。

世界遺産に登録されているタブリーズのバーザールにて。
中東最古のバーザールであると言われている。(2020年2月19日木下実紀撮影)

顕在化した東アジア人差別
1月ごろから中国を中心に新型コロナウイルスが猛威を振るっていると報じられるようになると、私を含めた東アジア圏の人々は差別に直面することとなった。これまでも街中を歩いている時には、「チンチュンチャン(東アジアの言語の音の響きから、東アジア人をからかう言葉)」と言った差別用語を投げかけられることはあったが、これが新型コロナウイルスの流行とともに悪化したように思われる。私も道を歩いている時に、中高生男子の集団が走り去りながら「コロナ、コロナー」と叫んで来たり、すれ違ったバイクの人からも、わざわざ「コロナー」と叫ばれたりした。路上を歩いていると、「中国人が来たから危ない、避けて」と眉をひそめながら友人の手を引く女性もいた。もちろん、そういった行動をしない人々の方が大多数で、こうした人々はごく一部であったことは断っておきたい。

最も印象的な出来事(と言うよりはショックな出来事と言った方がふさわしいだろうか)は、タクシーを降ろされそうになった経験であろう。ある日、知人の家に向かうためにタクシーを配車アプリで呼び、車に乗り込んだ。運転手が私の顔をバックミラー越しにチラチラと見ていると思ったら、数十メートル走ったところで車は停車。「この目的地まではいかないから降りてくれ」と言われた。乗車してからの運転手の挙動から、私が中国人旅行客だと思ってコロナウイルス感染の可能性を考えているのではないかと思ったため、私は説得することにした。まず、このアプリを使うような外国人は長期滞在しているはずで、私自身も1年以上ここに住んでいる、と伝えた。本当は半年ぐらいだったが、ここでは強調するために実際よりも長いということにした。最後に日本から来たことを伝えると態度が一変。このような経験は今までもあったが、日本人であると言うことで私自身も差別をしているような気分になり、非常に悲しくなった。その後も、その運転手は「中国人と顔が似てるんだね」「中国人は嫌いだ、倫理観がない」と言ったデリカシーの無い発言が目立ち、非常に不快であった。私はその度に「アジア圏の顔なんてみんな似ているし大して変わらない」「日本人でも、何人であっても悪い人は世界中にたくさんいる」「人種や国で差別すべきではない」と反論したが、態度を改めることはなかった。タクシー乗車後にはアプリ上で運転手の評価をつける機能があるのだが、あまりにも態度に問題があると思ったので、最低評価をつけた上で長文のコメントを書いた。翌々日ごろに運営会社から謝罪の電話がかかってきた時は驚いたが。これ以降というもの、タクシーに乗る際に「私はもう1年以上住んでいるから、怖がらないでね」と言って予防線を張るようになった。反応は様々だったが、「そんなこと気にしてないから大丈夫だよ」など優しく対応してくれる人がほとんどであった。

このような差別は日本人の友人のみならず、同じ寮で生活していた韓国の友人も同様の体験をしているという話を聞いた。同様にタクシーを呼んだ際、タクシーが近くに来たにもかかわらず彼女たちの顔を見るなり通り過ぎ、キャンセルされたという。

新型ウイルスに対する人々の反応
2月19日に最初の感染者が発表されてからというもの、日に日に感染者が増えると、イラン人は想像以上に潔癖に、そして神経質に対応していた。タクシーや飲食店などのあらゆる場所で、アルコール消毒やマスク、ゴム手袋着用を徹底していた。行きつけのカフェでは、店名(Lamīz)と清潔(ペルシア語でTamīz)であることを掛け合わせた宣伝を行っていた。防護服のようなものを身にまとった人々が道路に塩素を撒くことも頻繁にされており、タクシー運転手の中にはタクシーの中に塩素を撒いていた強者(?)もいた。当然車内は白くなっていた。また、とある大型ショッピングモールの入り口やその駐車場では、入店する客に対しセンサー式の体温計をかざし、熱がないかどうかを確認して入店させるようにしていた。

イランでは、ボディータッチが比較的多いと思われるが、新型コロナウイルスの影響により変化していった。人と会った時には男性は握手、女性はハグをして両頬を合わせるというのが習慣であるが、感染リスクを下げるためにこれを避けるようになった。S N Sでは握手の代わりに足を交互に当て合う男性の様子を撮影した動画が話題となった。

政府がまだ自粛を呼びかけていないにもかかわらず、2月下旬には、人々は外出を控えるようになっていた。行きつけのカフェも、普段の午前中はモーニングで混雑しているにもかかわらず、貸し切りに近い状態であった。徐々にこうしたカフェも営業を午後のみにするなど、自粛ムードが広がっていった。また、外出が減少した影響により交通量が大幅に減少し、タクシーの値段がかなり下がっていた。しかし、普段は大気汚染のために見通すことができないテヘランの空が、かなり改善されるという良い側面もあった。移動や交通量の減少は顕著で、帰国間際にテヘランの中心部であるエンゲラーブ通りに行ってみると、閉まっている店が多く、歩道も人っ子ひとりいない状態であった。

このような状況では買い物も大変であろうと思う人も多いかもしれない。しかし、イランではデリバリーが発達しており、いわゆるUber eatsと似た機能を持つイラン独自のアプリケーションが存在する。これはイランで使用されている2つの配車アプリのうちの1つであり、デリバリーやスーパーでの買い物も代行してくれる。加えて、2020年5月頃には医者が往診してくれるという機能も追加されたようである。

SNSでは、「コロナに打ち勝とう」「隔離生活○日目」と言ったハッシュタグが2020年3月半ば頃から盛んに使われるようになった。特に「隔離生活○日目」というハッシュタグでは、家の中でコントなどの面白い動画を撮ったり、ダンスをしたりする様子が多く投稿されていた。また、医療関係者が苦しい状況でもせめて明るく過ごそうと、防護服を着たまま院内で踊る動画が話題となった。しかし、悪ふざけというべきか、度が過ぎるものもあった。モスクでは、建物内のイマーム(イスラームの指導者)の墓石を囲む格子に触れるとご利益があるとされ、触れたり接吻をしたりして祈る人が多く、これが感染拡大の一因なのではないかと言われていた。すると、とある男性が「俺はコロナなんて怖くない」と格子を舐める様子が動画で拡散された。当然これには批判が相次ぎ、その後男性は逮捕されてしまった。

私にとっては対米関係悪化の方が恐怖の対象であったが、イランの人々にとってはウイルスに対する脅威が勝るように思えた。異なる質の恐怖ではあるものの、この差は私にとって興味深く感じられた。

普段は混雑するエンゲラーブ通りの歩道も、新型コロナウイルスの影響で誰もいない。
(2020年3月5日木下実紀撮影)

帰国の決断と脱出劇
上記のように細やかな対策をしているように見えていたものの、感染者数は爆発的に増加してしまった。2020年2月19日の最初の感染者発表からわずか5日で100人近くの感染者が確認され、1週間後にはテヘランとギーラーンの感染症危険度がレベル3に上げられてしまった。経済制裁の影響で医薬品が不足しているという指摘もあり、残念ながら死亡率も他国と比べて高いものであった。その後も毎日100人単位で感染者が増え、商用機も運行を停止するものが多くなっていった。このままでは出国できなくなる可能性が高いとみた私は、とうとう帰国を1ヶ月早めることを決意した。ちなみに出国した3月8日にはすでに国内の感染者の合計が5800人、死者数が145人を数えるという凄まじい状況になっていた。

帰国を決断し、チケットを取る時は複雑な心境に押しつぶされそうだった。対米関係悪化の影響と、更に新型コロナウイルスの感染拡大によって、危険レベルが上げられてからというもの、大学や両親、そして現地の大使館からひっきりなしに来る連絡が、私を追い詰めていた。カタール航空の日時変更可のオープンチケットにしていたにもかかわらず、オンラインでは既に変更不可能になっていたことも更に悩ましいことであった。当時、既にコロナウイルスの影響で便が減り、価格が高騰していたのである。片道の料金を見ると、20万円を超えるまでになっていた。試しにカタール航空のテヘラン支局に電話をかけても、当然のことながら繋がらなかった。友人の話によれば、行列に並ぶという習慣のないイランであるにもかかわらず、早朝から並ばなければならないほど人が殺到しているとのことだった。カタール航空で帰ることは諦め、払い戻し手続きをして別の会社の便を予約することにした。席が空いているという情報があったのは、イラン国内のサイトからしか予約ができないマハーン航空のみであった。マハーン航空は件の革命防衛隊が株を持っている会社で、経済制裁の影響を直に受けていたため、イラン国内からしか予約ができないというからくりである。日本への直通便は大手の航空会社を含め一つもないので、いずれにせよ乗り継ぎや乗り換えが必須であった。マハーン航空でタイまで乗り、タイ航空の関西空港行きを予約した。タイでのトランジットでは、異なる会社の飛行機であったため、外に出ることができない上に23時間と長時間の滞在を余儀なくされた。帰国後、耳にした話だが、私が乗った飛行機の便を最後に、イランからのほとんどの国際便は運行が停止してしまったという。まさに脱出劇のような体験であった。

イランの生活様式の変化とこれから
今回の新型コロナウイルスの流行下で、イランの生活様式は大きく変わってしまったように思われる。大勢の客人を家に招き、食事や談笑をすることが最大の楽しみである人々にとって、制限された状況は非常に苦しいものであるに違いない。特に、イラン暦では3月下旬に新年を迎え、例年は盛大に祝うものの、今年は当然のことながら祝賀ムードもなかったと言われている。

2020年7月現在、イランにおける新規感染者数は、ある程度の数を保ったままの傾向が続いている。経済制裁の影響により医薬品は十分な数を確保できていないため、終息には困難を伴うであろうし、先行きは極めて不透明である。イラン人は海外に家族を持つ人が多いため、こうした人々は家族とも次いつ会えるか、現状ではわからないままである。普段はインターネットでコミュニケーションを取りつつ、直接会うということも可能であった。しかし、物理的に遮断されてしまった中で、インターネットの限界も感じられているのではないか。

新型コロナウイルスの影響で人々の生活様式が変わった、あるいはこれから更に変化していくことは、ある意味で1979年の革命後に生活がイスラーム化した衝撃と重なるかもしれない。研究者としては興味が尽きないが、一個人としてはイランに1日でも明るい光が差し込むことを心から願うばかりである。

マシュハドのイマーム・レザー廟にて。(2019年12月16日木下実紀撮影)
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