エチオピアにおけるコロナ禍:ボラナ社会とアサラ市の場合

2020年11月12日

大場 千景(アルシ大学人間社会科学研究科、文化人類学、口頭伝承研究)

1 はじめに
私は、エチオピアでオロモ語を母語とする諸社会をフィールドとしている文化人類学者である。エチオピアの南東部に位置するアサラという名の地方都市にある国立アルシ大学で教鞭をとっている。アルシ大学は調査対象の一つであるアルシ社会に最も近い大学であり、私は人類学を教えつつ日々調査/研究を進めている。エチオピアの大学教育は様々な困難に満ち満ちているが(それ自体がすでに研究対象になりえるぐらい興味深い現象であふれている)、エチオピアの大学の教員であるということで、長期滞在のビザや調査許可が比較的容易に取れ、いつ、いかなる時もフィールドワークができるという恩恵をうけている。従って、エチオピアにおいて最初のコロナ感染者が発見された2020年3月13日以降、現在(2020年11月3日)に至るまでエチオピアにいながら、コロナ禍とエチオピア社会を眺めてきた。

コロナ問題が持ち上がった3月半ばから7月半ばまでの約4ヵ月間は、私は大学に行くことも、フィールドワークに行くこともせず、アサラにある自宅にひたすら引きこもりながら、卒論や修論の指導をしたり、フィールドで収集してきた録音データの整理や翻訳をしたり、ボラナやアルシに関する本や論文の執筆を行なったりしていた。その後、7月半ばから9月の半ばにかけては、私のもう一つの調査対象であるエチオピア南部のサバンナ地帯で牧畜を生業とするボラナの人々のところでフィールドワークを行っていた。本稿は、このボラナ社会とアサラという都市的空間からみたコロナ禍の記録である。

2 コロナ禍の緊張感と揺らいでいく社会的親密さ
エチオピアで最初のコロナ感染者として発表されたのは日本人であった。第一感染者は、アサラ市から60㎞ほど離れたデーラという町で100人規模の教育に関する会議を開いた後、感染が発覚したという。アサラからほど近い場で、しかもアルシ大学の教員たちも参加していたということで、大学関係者は騒然となり、3月半ばに予定されていた国際学会の延期、大学の休講の決定が即座にくだされた。

最初の感染者の発表以来、3月から4月にかけて、新規の感染者が続々と発表されていく中で、アサラは徐々に緊張感に包まれていった。日本人に次いで初期に報道されていった感染者たちの多くはヨーロッパ系の外国人だった。一方で、エチオピアの外国人居住者の中で最大多数になる中国人の感染報告がメディアの報道に一件も出てこなかったのは奇妙であった。人々の噂のレベルでは中国人が工場関連の会議に登場してその後感染が発覚しただとか、道端で卒倒しているのを目撃しただとかささやかれていたのではあるが。

そんな中私は、現金を大量に銀行からおろし、市場で生鮮食品や保存可能な食料品や飲料水の買いだめを行なってひきこもり体制を整えることにした。アサラに住んで3年目、私の存在もこの小都市の住人に既知となってきているので、「コロナ」と連呼されたり、乗車や飲食の拒否といった不当な差別をうけたりすることはなかった。しかし、市場で私が咳を一つした時、商人たちから疑惑に満ちた恐怖の眼差しが投げかけられたのを覚えている。「外国人が感染源」という認識が人々の間に日に日に流布していく中で、不必要に町場をうろうろして万が一アサラのどこかで感染者がでたら、クラスターの発生源としていらぬ疑いをかけられるかもしれないと妄想するようになった。ここはひとまずエチオピア人自身の感染報道が出てくるまで鳴りを潜めるのが得策、とこの時強く思った。

2020年4月11日にエチオピア政府から5か月間の緊急事態宣言が発令された。5人以上の集会の禁止、国境閉鎖、握手の禁止、家賃の値上げ禁止、解雇の禁止、公共交通機関における定員の50%を超える乗車の禁止、スポーツの試合や行楽地等の営業禁止、教師と学生の対面授業の禁止等々が宣言され、違反者には、3年以下の懲役または20万ブル(約100万円)の罰金が科された。これ以降から5月にかけて、人々の緊張感はさらに高まっていった。人々は動くことをやめ、交通機関はほとんどストップし、定期市も停止した。仕事にあぶれた若者たちが町々でたむろしはじめた。この時期、アルシ西県のコフォレの町では富裕層の商店へ若者集団が打ちこわしを行ったという情報が流れ、町々の金持ちたちを震え上がらせていた。人々は親密な挨拶も集まりも、教会やモスクでの祈りもやめた。ギスギスした空気の中で、世帯を共にする人間以外はすべて災いももたらすかもしれない者として疑惑の目を向け合い、エチオピア社会の中で無条件に流れていた、特有の、あたたかな社会関係の親密さがこの時期消え去っていた。

3 人々の鬱屈とカタストロフィー
私は二週間に一度ほどの間隔で市場に野菜や果物を買い出しに行く際に外に出る以外は家で仕事をしていた。同じ敷地に暮らす大家一家の家でたまにコーヒーを飲んでおしゃべりする以外は、人に会うことがなくなった。当初、家でじっくりと執筆する時間が与えられて密かに喜んでいたのであるが、2ヶ月もたつと、昨日のような今日、今日のような明日が続いていくことに辟易し始めていた。そんな鬱々を感じ始めたのは私だけではなかったようだ。6月ぐらいになると、各地で、自粛に関する生活の不満とともに、「コロナは存在しない説」、「コロナは政治家による狂言説」が密かに唱えられるようになっていった。だが、コロナに対する警戒感が緩まっていくのとは裏腹に、アディス・アベバでの感染者が爆発的に急増し始めていった。

6月半ば、休講措置を取り、しばらく機能を停止していた大学は、オンライン教育開設のために動きを見せた。私もそのオンライン教育のための教員に対する講習に参加した。しかし、システムを開設したものの、エチオピア全体のインターネットの普及率の低さと学生のパソコン所有率の低さ、さらには、講座学生の名簿の不備という単なる事務方の怠慢によって、今のところオンライン・システムの教育への利用は実現されていない。

6月末、オロモ出身の人気歌手、ハチャール・ウンデーサが何者かによって暗殺された。暗殺された次の日の早朝、私は鳴り響く銃声を聞きながら起きた。その日の午前中は、彼の死への追悼の念と彼の死の裏にある「政治的陰謀」への怒りにわく若者たちのデモと警官との衝突が続いていた。オロミア州の各地で道路封鎖が行われ、デモの影響は数日から一週間ほど続いた。さらに、その日の夕方、オロモ連邦党党首ジョハル・モハマッドと副党首のベケレ・ガルバがエチオピア連邦政府によって逮捕された。その後、インターネットがエチオピア全土で1ヶ月ほど遮断され、オロミア州一帯では逮捕に対するジョハル支持者の抗議デモが警戒されていた。この事件に関連して引き起こされた各地域での集団抗議デモによりコロナの感染は相当広まったはずだが、この時、人々はそんなコロナへの不安よりも、政情におびえていた。

4 ボラナの「グミ・ガーヨ」の断行
7月初め、エチオピアではコロナ禍に次いで政情不安が深刻になっていった。道路封鎖、インターネット遮断、大学は依然として休講状態である。一方で私の研究はなかなか良い感じに進んでいた。二本の論文を書き上げ、学術誌の査読に回した。さらに、この期を利用して、エチオピア南部に居住するボラナの人々の「歴史」に関する本を書き進めていた。論考は、2014年に出版し、無文字社会であったボラナにおける6世紀に及ぶ歴史記憶の生成と継承のメカニズムを解明した拙著の続編である。今度の論考では、ボラナの「歴史」は誰によってなんのために語られ、6世紀にもわたって集団で記憶されるようになったのか?という問いを、彼らの歴史記憶とガダとよばれる年齢階梯制に基づく社会構造、その中での政治実践や権力闘争との相互作用から考察しようとするものである。年齢階梯制とは、年齢や世代に基づいて集団を形成し、通過儀礼を行ないながら、一定の期間ごとに(ボラナにおいては8年ごと)社会的役割や立場を変えていく社会制度のことである。論考は、大体70%ほど書き終わり、残りの記述のためにはさらなるフィールドワークが必要であった。研究上の次の一手を打つ段階にきていたのである。そんな時、ボラナの人々が「グミ・ガーヨ(Gumii-Gaayyoo、ガーヨの地での大会議の意)」を行うことに決定したという「朗報」がやってきた。当初コロナ禍のため、その開催が危ぶまれていたのであるが、ボラナのリーダーたちは8年に一度行われるこの慣習の断行を決定したのである。

コロナ禍があってもなおボラナが断行しようとした「グミ・ガーヨ」という慣習について説明するために、まずはボラナの政治実践について若干言及しなければならない。ボラナには全部で17の氏族が存在し、それぞれリーダーを選出して組織内の揉め事を解決し、相互扶助や水場などの資源の共有を行いながら、自治を行なっている。氏族に加え、ボラナは年齢/世代に基づいてルバとよばれる組織を形成する。ルバ組織は、前述した年齢階梯制と関連しており、8年毎に階梯、いわゆるライフ・ステージを変更しながら付与される社会的役割を全うしていく。このルバ組織が第6番目のガダとよばれるライフ・ステージに達するとボラナ全体に関わる意志決定や紛争解決に責任をもつようになる。グミ・ガーヨとは、ガダ階梯に達したルバ組織の中で選ばれたアドゥラとよばれるリーダー、氏族のリーダー、そしてボラナの人々がガーヨの地に集まって行う大会議のことである。彼らは、1ヶ月ほどの時間をかけて、これまで未解決であった係争や傷害などの人間関係の諸問題について裁定を行う。また、慣習法の再確認とともに、社会の変化に応じた慣習法の撤廃あるいは新たな制定を行って宣言する。

マリユ氏族の会議 (2020年8月30日大場千景撮影)
木陰に円形に座る。中心には氏族の役職者が座り彼らを中心に会議が進んでいく。

8年に一度開かれるこの大会議に関して、ボラナのみならずエチオピア内外の注目度は高い。通常であるならば、エチオピア南部やケニア北部に居住するボラナをはじめとし、オロミア州政府から政治家や行政官、首都周辺部からの報道陣、世界各地からの研究者、飲食や日用品の販売といった商いに携わる人々、他地域からの老若男女等々が集まってくる。政府は、コロナ問題に加え、ガーヨ周辺にはオロモ解放戦線の過激派が潜伏しているため、群衆が集まるグミ・ガーヨの中止を要請していた。しかし、ガダのリーダーたちは、断固として要請を受け入れず、コロナ予防と過激派対策のためのあらゆる措置を政府と共に行っていくことを約束し、中止も延期もせず、慣習通り、2020年の8月に実行することに決めた。

ガダ階梯では8年間、数々の通過儀礼が目白押しで、しかも儀礼を実行すべき日取りが慣習上決まっている。つまり、ガダのリーダーたちは、8年間の変更不能な過密スケジュールを抱えているのであり、そもそも延期は不可能であった。当初、私はコロナ禍や国家的な政情不安があるのに、慣習の遵守へと突き進むガダのリーダーは何て決断力があって偉いんだと単純に称賛していたのであるが、ボラナの老若男女はこの断行についてもっとシビアな見解を持っていた。曰く、もちろんグミ・ガーヨは重要な慣習だが、それ以上にガダのリーダーたちは、グミ・ガーヨの開催によって得られる、エチオピアやケニアの地方自治体や政府、NGO、企業などからの援助物資や莫大な義援金が目当てなのだ。

人間が行為を行うには様々な動機があり、それらは通常混然一体となっているものである。どれが本当でどれが嘘というものでもない。グミ・ガーヨはボラナ社会の運営のために中止することはできないという使命感、慣習を遵守するボラナという他者イメージ、コロナ禍にも関わらずグミ・ガーヨを開こうとする我々というヒロイズム、そしてそれによってもたらされる富。どれも外すことができない断行の動機なのである。

ガダと氏族の役職者たち (2020年8月24日大場千景撮影)
グミ・ガーヨを開始するために木の下に祈りに行くところ。
先頭を歩いているのが71代目のガダの父(ガダのリーダー)であるクラ・ジャルソ。

5 コロナによる死あるいはクラスターの感染源になるという妄想
私にとって、グミ・ガーヨに参加しないという選択肢はあり得なかった。グミ・ガーヨで氏族やガダのリーダーたちが行う会議での意思決定の過程や方法を参与観察しながらガダの政治実践を記録することは、私の著作を完成する上で、必要不可欠な作業であると判断したからだ。一方でコロナ感染地域からの人々の流入、群衆の密集密着は容易に想定され、死ぬかもしれないとも考えた。ボラナの友人知人に私が万が一死んだら遺体は日本に送らずにガーヨの地に埋めるようにというと、笑いながら、ガダの父が呪術を施したからコロナはやってこない、とか、我々はいつもワーカ(土着の神)に祈っているのだから、コロナはやってこないと言っていた。

7月半ば、グミ・ガーヨを調査することを決断した私は、アサラのアルシ大学付属病院でPCR検査を受けた。結果は陰性で、その結果を書面化してもらい、その日の夜、ボラナの友人が運転するトラックに便乗し、700キロを夜通し走って早朝ヤベロの町についた。ボラナにコロナを持ち込むという事態は絶対に避けなければならないことであり、そのために細心の注意を払いつつ、できるだけ早くガーヨの地に定着しなければならないと考えた。グミ・ガーヨの開催自体は8月後半であるが、氏族やガダの役職者とその家族は、その1ヶ月ほど前にガーヨに家畜と家財道具一式とともに移住してヤーという名の集落を形成する。ヤーの集落はいわばボラナの政治の中枢である。ヤーの住人たちは、ガダ階梯で行わなければならない通過儀礼を遂行するために、8年の間ボラナの各地を移住しながら共に暮らす。もちろん、グミ・ガーヨはそのヤーの集落で開かれる。従って、私も彼らが集落を形成する時期にガーヨにたどり着き、人々とともに暮らしながら、人間関係を構築しつつ、グミ・ガーヨの開催を待つということに決めた。私自身はボラナにとって既知の存在となっていたが、アルシの地というボラナにとって「遠い」地からきた私へのコロナ疑惑を早めに払拭するためにも、また、一筋縄ではいかないボラナの「政治家」たちの調査を遂行するためにも、それは重要なことであった。

実際、ボラナにおいて外部から来た者へのコロナ疑惑は相当なものになっていた。この頃アサラでは、コロナは存在しないか、それほど恐ろしくない病と考える人も出てきていたが、ボラナにおいては、とてつもなく恐ろしい病として警戒が強められている時期であった。夜行トラックに乗って、早朝ヤベロの町についた私は、そのまま、早朝発のアレーロ行きのバスに乗って、十年来通い続けているアラヘ翁の村に行くことにした。アラヘ翁の村でガダに関わる通過儀礼が行われるということもあったが、その村の近くでガーヨに移住する途中の氏族やガダの役職者たちの一行がキャンプをすることになっていたからだ。ついでに調査の布石として挨拶をしておこうと思ったのだ。ところが、アラヘの村にほど近い小さな町場のような集落にたどり着くと、いわば村役人的な人物から、ボラナ外部から来た者を県の許可なく地域に入れないようにとのお達しがきているから、ヤベロに戻って県の許可を得るまで村落にはいってはいけないとの警告を受けた。彼は、私が携えてきたコロナ陰性証明書の紙を手に取ることすら恐れていた。私が証明書を見せながら説得しても納得してくれなかったが、近くでキャンプしているガダの役職者たちから許可が出ればよいかと提案したら、その提案は受け入れてくれた。そこで、私は、氏族とガダの役職者たちのキャンプ地に行き、ガダのリーダーたちにコロナ陰性証明書を提示しながら、グミ・ガーヨでの居住と調査に関して許可を求めた。彼らは快く受け入れてくれた上、県庁の方にも私の到着と調査について伝えておくと言ってくれた。

ガダの人々が私の存在を受け入れてくれたのでほっとはしたものの、私は内心自分がクラスターの感染源となって、私に関わった人々にコロナをうつしてしまうかもしれないという妄想にしばらく苦しめられた。私は自分が死ぬことよりも、それが一番怖かった。また、コロナにかからなくとも、いらぬ疑いをもったり、もたれたりしないように、風邪でもひいて咳き込んだり、体調が悪くなったりすることは絶対できないとおもい、自分の免疫力よ、強まれ!誰にも何事も起きませんように!と毎日祈っていた。そんなわけで、ボラナ社会に入って2、3週間は生きた心地がしなかった。しかし、その後、私にも私の周りにも何も起こることはなかったので、ボラナの誰かが私にコロナを感染させる可能性があっても、私が感染媒体になってボラナでクラスターを発生させる可能性がなくなったことに心底安心した。

6 グミ・ガーヨで暮らす
ガーヨの地には私が長年調査をしてきた集落がある。そこに立ち寄って、ほぼ私の親族のような存在になっている村の人々に、ヤーの集落に小さな家をつくって、グミ・ガーヨが終わるまで氏族とガダの役職者たちと暮らす計画を伝えた。村の中でも懇意にしている女性たちやヤーの集落の女性たちに家づくりへの協力をお願いし、小さなドーム状の家を作ってもらった。家の中には、木を組み合わせて作ったベッドをしつらえてもらい、思った以上に快適な家ができた。素敵な住まいは、二日で出来上がった。

家 (2020年8月8日大場千景撮影)
このドーム型にブルーシートを被せたら完成である。
氏族のリーダーたちの家々の間、アカシアの木の下に建ててもらった。

定着初日に氏族の役職者の息子の一人が軍人を伴って私のコロナ陰性証明書を確認しにきた以外は、コロナ関連で私への警戒心はほとんど感じられなかった。ボラナは驚くべき情報共有能力をもっている。この二週間前、私は調査の布石として彼らがガーヨへ向かう道中で挨拶していたので、私がPCR検査をしてきたことも、ガダのリーダーたちが私に調査許可を与えたことも、そして、その後彼らの集落に何も起こらなかったことも、すでに情報として共有していたのだろう。そこで早速、氏族とガダの役職者たち、並びにボクやワイユと呼ばれる儀礼の執行者たちの計22人の家々を訪ねては、彼らの顔と名前、性格、仕事ぶり、人間関係を観察していった。さらに、彼らが行う紛争処理法廷開催の情報があれば、会議の場に入り込んで録音と観察を行う。また、氏族やガダの役職者たちは公の会議の前に秘密裡に何人かで意思疎通をはかろうとするので、その人間関係の動きを読みつつ、懇意にしている役職者たちにこっそりとその意思疎通の展開状況の聞き込みをする。八面六臂に動きながら情報を集めていかなければならなかった。

ヤーの住人たちの多くは、7月末の時点でもマスクすら持っていなかった。その後、その近くの町場や市場でのマスク着用の義務化が強化され、NGOや政府からマスクやアルコール、石鹸などの配給を受けながら、マスク所有者は増えていった。ガダの村にはグミ・ガーヨ開催に向けて、ボラナの各地から自分たちの問題を氏族やガダの役職者たちに訴えにやってくる人々が後を絶たなかったし、8月半ばからはさらにヤーの集落は滞在者を増やしていった。滞在者には感染者が増加中のケニアとエチオピアの国境付近地域やマルサビットやイシオロなどケニア北部のボラナもたくさん含まれていた。

滞在者は役職者たちがそれぞれ建てたドーム型の家にしつらえてあるいくつものベッドを何人かで共有しながら寝るか、家の外部に敷物をしいてそこで雑魚寝をしながら夜を明かした。彼らはいずれも到着初日は用心深くマスクをつけているが、いつのまにか外しており、いつも通りの密集密着の日常に戻っていった。政府の保健関係の部署の役人が爆音でコロナ警戒のアナウンスを流していても、NGOの職員が毎日見回りにきてマスクをつけるように、離れて座るように、直接指導しても、馬耳東風、暖簾に腕押しであった。ほとんど無意識であるが、マスクを着け離れて座る者は部外者としてみなされ、ボラナの日常である会議や家の中で密集密着の状態にある者たちは一連托生の仲間であるという連帯意識が生まれているようであった。郷に入っては郷に従えをモットーとする人類学者である私は、彼らと同じように過ごしていったので、彼らも私を一連托生の仲間として扱った。そんな感じで5000人ぐらいの人々が1ヶ月ほど密集密着していたのだが、幸い死人は出なかった。

慣習法宣言直前 (2020年9月9日大場千景撮影)
木の下に人々が円形になって集まっている。
中心にはガダの役職者や氏族の役職者たち。さらに各局の報道陣。

7 ボラナとアサラからみるコロナの影響
結局、グミ・ガーヨ開催中も、終了後1ヶ月たっても、ボラナでコロナ蔓延という事態には「公的」にはならなかった。単に視覚化されやすいコロナ重症者や死亡者が出なかったというだけで、軽症者や無症状者は本当はいたのかもしれない。ただ、ボラナの人々の中で、コロナ禍下でのグミ・ガーヨというかなりリスキーな体験をへてもなおコロナはボラナにはやってこなかったと認識され、取り越し苦労だったと苦笑とともに語られる。新型コロナ感染症は、世界各地の特に先進国と呼ばれる国々の社会や経済に極めて大きな影響を与えている。しかしながら、今のところではあるが、エチオピア南部のボラナの社会や文化に対してその根底を揺るがすような影響をもたらしているとはいえない。

エチオピアの中でもアサラなどの都市的空間においてはどうだろうか。コロナ禍が始まってからしばらくして、私の借家の向かいにある小さな商店の幾つかが閉まった。日雇い労働者の仕事が一時期なくなった。公共交通機関がストップした時期は、乗り合いバスの仕事をする若者たちが酒場で仕事がなくなったとぼやいていた。行きつけの飲食店もしばらく閉まっていた。その一方で、食料品を売る商店は売上を伸ばし、靴磨きの若者たちは、相変わらず持ち場で靴を磨き続けていた。コロナ禍がアサラにもたらした変化を強いていうならば、日曜日の早朝の若者たちの路上サッカー大会がなくなったことと通りの物売りたちの商品にマスクと消毒スプレーが加わったことかもしれない。

増えた商品 (2020年10月12日大場千景撮影)
アサラの目抜き通りの一角。
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