熱帯林に埋め込まれた村
今日も暑い。2020年2月、日本の人々がコートと手袋の中で凍えていた頃、カメルーン東南部の村で暮らす私は、Tシャツ一枚だけの体に汗をにじませていた。コンゴ盆地熱帯林の北西端に位置するこの地域では、12月から3月の間は乾季にあたる。雨はほとんど降らず、かといって毎日カンカン照りというわけでもない。車やバイクが未舗装の乾いた赤土を走れば、空気中に砂埃が舞い、路肩の草木を赤銅色に染め上げる。特に今年は、曇っていて風がなく、湿度の高い蒸し蒸しした日が多かった。
ただし乾季といっても、ここは水源の豊かな森のなか、水に困ることはない。私たちの暮らす調査ステーションから車を数キロ走らせれば透き通った湧き水が豊富に手に入り、村人たちも家の裏手から少し入った森の中で安全な水を手に入れることができる。
調査に出ていない時には、主にステーションの自分の部屋で、窓と戸を全開にしてすごした。水やコカ・コーラのペットボトルを飲み干し、気の遠くなるほど遅い衛星インターネットと格闘しながら、デスクワークをした。夕方には、ステーションのすぐ隣にある狩猟採集民バカの集落に飼い犬と赴き、村人としばらく雑談して、集落のはずれにあるムスリムの経営する小さな商店で、揚げドーナツとチャイをつまむ。普段とどこも変わらない、人口約千人の小さな村の人々の暮らしが、私の目の前にべたっと広がっていた。
私は、科学技術振興機構(JST)と国際協力機構(JICA)による地球規模課題対応国際科学技術協力(SATREPS)プログラム「在来知と生態学的手法の統合による革新的な森林資源マネジメントの共創」プロジェクトのメンバーであり、2019年8月からJICAによる長期派遣専門家 として、野生動物管理研究のためカメルーン東部州のある村に派遣されていた。
研究の目的は、地域住民の狩猟対象となる哺乳類、主にダイカー類とよばれる小型の偶蹄類(ウシのなかま)の、地域ごとの生息数を明らかにすることだ。ダイカー類は近年の商業的狩猟の高まりによって、個体群の維持が危険視されており、保全当局と地域住民の間の軋轢も強くなってきている。そこで私たちは、科学的方法と地域住民の持つ地域固有の在来知を組み合わせることによって、住民が主体的な管理の担い手となるような、野生動物管理システムを立案しようとしている。
ダイカー類の生息数を知るために主に私が用いる手法は、自動撮影カメラという、動物が前を通ると自動的にビデオを撮影する機器である。月の半分以上は村で雇った調査助手数名とともに森に入り、キャンプ地を毎日移動しながら、広大な地域に点々とカメラを設置していく。
風呂なし、トイレなし、歯磨きなし。一日の踏査が終わると、歩き続けて汗と土まみれになった身体を、村よりも格段に涼しい森のそよ風に当てて乾かし、ぼろぼろの登山靴を脱ぎ捨てて冷たい川の水で足を洗う。そのうちに、蛍がそこここで明滅をはじめる。調査助手の作ってくれたクスクス(キャッサバの粉を煮えた湯に入れ、杵でついた餅のようなもの)とトマトソースで胃を満たせば、あとは数千の虫の音に囲まれた、心地よい眠りだけが私たちを待っている。生態学調査は、修行であると同時に最高の贅沢でもある。
新型コロナ、静かな訪れ
このまま書き続けるとただの調査記になってしまうので、新型コロナの話をしよう。カメルーンにおける新型コロナウイルス感染拡大は2020年3月6日、約2週間前より首都ヤウンデに滞在していた フランス人の陽性報告に端を発す(BBC News Afrique. 2020年3月6日記事. https://www.bbc.com/afrique/region-51767655)。このニュースに触れた人々の反応は「ついにカメルーンにも来たか」という感じだった。当時すでに、新型ウイルスのアジアおよび欧州への拡大はカメルーン国内でも話題になっており、インターネット環境のあるステーションのスタッフはもちろん、村の人々の間にも、ラジオなどを聞いてか、情報はいつのまにか広まっていた 。
それとともに、村では誤った情報や過度な噂も聞こえるようになった。「とても危険な病らしい」「かかったら絶対死ぬんだろ」「息が出来なくなるのか」「センザンコウを食うとかかるのか」「災厄をもたらすのはいつもフランス人だ」などという話を、村の小さな食堂や民家の軒先で耳にした記憶がある。とはいえ人々は特に大騒ぎすることもなく、「こんな遠く離れた森のなかまで、病気はやって来ないよ」「コロナが来たって私たちには森の薬がある」と、まさに対岸の火事といった様子だった。
私自身はといえば、感染がじわじわと広がりつつあった日本にいる家族や同僚のことが少し気がかりだったが、正直言ってインフルエンザと大差ないと思っていたし、首都から700キロ以上離れたこの村までコロナが来るとは考えてなかった。そして、当時私はプロジェクトの重要な研究の1つ、総調査域3400平方キロメートル――およそ鳥取県の面積に相当する――の自動撮影カメラ広域調査を、日本とカメルーンの共同チームを率いて進めているところであり、調査を無事に成功させることを最優先に考えていた。一斉休校、マスク不足、欧州都市のロックダウン。色々なニュースをネットでしばらく斜め読みしては、すぐに仕事にもどっていた。
村から最も近い――といっても未舗装路を80キロメートル、車で3時間かかる――街であるヨカドゥマ市に出れば、アジア人である私を見た人々から「コロナ、コロナ」とからかわれることもあった。しかしそれも、それまでの「ニーハオ」が「コロナ」に代わっただけで、私たちを本気で憎み、危害を加えようとするものではないと思えた。顔見知りのガソリンスタンドのおばちゃんも、「おまえらがコロナをもってくるんだろ」と私をからかった。私が「そうなのかな。あれ…… ゴホッゴホ!」と冗談でわざと、彼女に対して咳き込んだ。おばちゃんは一瞬後ずさりしながらも、「こいつ、私をからかって」と笑みを返してくれ、お互いに笑いあうことができた。東部州ではまだ、新型コロナ問題は自分たちの世界の出来事ではなかったのだ。
国境閉鎖
事態が急転したのは3月17日のことだ。政府が翌日からの国境閉鎖、国内移動の制限、学校などの休校などを含む、13の措置を発表した(カメルーン共和国 首相官邸ウェブサイト.https://www.spm.gov.cm/site/?q=en/content/government-response-strategy-coronavirus-pandemic-covid-19)。このころ既に欧州では、イタリアを中心とした感染爆発と都市のロックダウンが開始され始めていた。しかしカメルーン国内の陽性者は公式発表によるとまだ10人で、それほど深刻な拡大を示しているとは考えられず、この段階での国境閉鎖は多くの外国人にとって予想外だったと思う。感染が爆発的に拡大した際に、カメルーンのぜい弱な医療体制では治療が追い付かない、と政府が早期に判断したのかもしれないが、私たちは突如としてカメルーンに閉じ込められてしまったわけだ。
時をほぼ同じくして、京都大学とJICAから、私のような長期派遣専門家 を除いた日本人短期出張者に対して、すぐに連絡が取れるところに出て待機するよう、指示が出された。当時、私たちの研究チームには数名の日本人研究者と日本・カメルーン両国の大学院生が、公道から離れた森林内で、狩猟採集民の人類学調査や動物生態学調査を行っていた。
この日から、私自身が首都に移動するまでの4週間は、目まぐるしく過ぎていった。私は日本やヤウンデと現地との連絡係となり、情報の整理と現地研究者の安全確認の任務が課された。森林内のキャンプにいる彼らに伝令を飛ばし、数日で連絡手段を確保することができた。その数日後、私を除くすべての日本人メンバーの首都移送が決まったので、3月末にすべての研究者らが村に戻ってきた。大学院生の中には調査期間をあと2か月近く残している者もおり、彼は計画していた調査を断念せざるを得えなくなって、がっくりと肩を落としていた。そんな彼を見るのはつらかったが、僕にはどうすることもできなかった。
彼らは限られた時間でデータの取りまとめや作業の後片付けを急いで終えた。皆が村を発つ前日の3月29日夜、村でヤギを買い、現地のスタッフらとともに、ステーションの裏庭でバーベキューを楽しんだ。乾季も終わりに近づき雨もしばしば降るようになってきたが、この夜の空は澄み渡り、星空の下、いつまでも飲み、話した。翌朝村を出た彼らは首都到着後、日本政府らが手配した臨時便にて31日にカメルーンを発った。
一方で、国境閉鎖の後も村の様子に大きな変化はなかった。国立農業開発研究所(IRAD)の施設である私たちの調査ステーションでは、入り口に手指消毒用の石鹸と水が設置されたが、村ではこれまでより頻繁に手洗いする人も、マスクをつける人も、ソーシャル・ディスタンシングを気にする人も見かけない。そもそも村では家屋のほとんどの窓は開け放しであり、換気抜群の環境ではある。政府が打ち出した措置の中には、バーなどの夜間の営業停止も含まれていたが、街から遠く離れたこの村まで見回りに来る警察官やジャンダルム(警察とは異なる、公的な治安維持組織の職員)などはおらず、相変わらず深夜まで爆音で営業を続けていた。
村でのほとんど唯一の変化は、村にある小学校が休校してしまったことだ。とはいっても、村の小学校はそれまでも先生の都合でよく授業が休みになっていたので、それほど目立つわけでもなかった。また、街の小中学校に通っていた子供たちも学校の休校に伴って、続々と村に戻ってきていた。村の人たちの口からは相変わらずコロナの噂話が時折出るものの、どれほど警戒しているのか、実際のところはよくわからなかった。
調査終了、そして退避
村を去る研究者らを見送り、残されたのは、日本人は私だけ、カメルーン人では学生とスタッフが数名という状況になった。3月31日に日本国外務省から「アフリカにおける新型コロナウイルスに関する注意喚起(日本国外務省ウェブサイト.https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcwideareaspecificinfo_2020C045.html)」が発出され、私に対する退避指示も近いうちに出される公算が高かった。したがって設置している自動撮影カメラを、予定を繰り上げて回収することにした。
しかし、私自身はすでに連絡が取れない森林内でのキャンプを制限されていたため、森の奥深くのカメラ回収はカメルーンの学生や調査アシスタント、そして村人の中で携帯GPSを使いこなせるわずかな者に頼るしかなかった。急いで各チームの回収ルートとスケジュールを組み、彼らを送り出すと、私自身は日帰りで行えるカメラ回収とデータ収集に専念した。
公算通り、4月初旬には、JICAより私に首都移動の指示が出された 。また、カメルーン人も含めたすべての研究者と学生が村を離れることが決まった。これはプロジェクトの活動が大幅に縮小されることを意味する。それは村にとっても大きな出来事なので、村長に説明をしに行った。新型コロナウイルス感染拡大のため、調査滞在の継続ができなくなったこと、この問題が収束すれば戻ってくることを話した。大柄で穏やかな村長は、静かにうなずき、理解を示してくれた。
4月10日までには、森に向かった学生やアシスタントらもカメラとともに全員無事に帰村し、なんとか調査をやりきることが出来た。疲労を押して森の中を数十キロも分け入ってくれたカメルーンの仲間たちには、いくら感謝しても足りないくらいだ。2日後の12日、2台の車に分乗した私たちは村を後にした。村の人たちには、なぜ私がコロナウイルスのまだ来ていない村から、すでにウイルスが蔓延している日本に帰らなければならないのか、理解できなかったのではないだろうか。
村を出る数日前から、カメルーンでは公共の場所でのマスクの着用の罰則付き義務化と、検問所での検温が実施されていた。未舗装路が終わるころには、街の人のほとんどが布マスクを着用しており、ふだんはパスポートを見せるだけの検問所では、白衣を着た保健省の職員からマスクの着用を確認され、額に検温器を当てられた。車の窓の外の景色が少しずつ首都に近づくにつれ、別世界の出来事だったものに実感が伴いはじめ、底知れぬ恐怖が少しずつ湧き上がってきたのを覚えている。
首都に着いても国際空港はすでに閉鎖されており、いつ日本へ発てるか は明らかでなかった。カメルーン国内の累計陽性者 は4月13日までに800人を超えており、さらに悪いことに感染拡大の中心地は、最大都市のドゥアラではなく、首都ヤウンデだった。首都で過ごした1週間は、村での暮らしの何倍もの不安と警戒心を抱かせるものだった。数日後にエチオピア航空のチャーター便が出される可能性があるという情報を得たが、それでも落ち着かない日々が続いた。最終的には予定通りチャーター便の出発が決まり、4月17日に私を含むJICA関係者数名は、無事カメルーンを出ることが出来た。その背後には、外務省、JICA、大使館など、非常に多くの人たちの尽力があったようである(朝日新聞DIGITAL.2020年4月21日記事.https://www.asahi.com/articles/ASN4P3T3RN4NUTFK00G.html)。エチオピアでの乗り継ぎを経て、19日、私たちは成田空港に降り立った。
剥がされた化けの皮
日本帰国から今日までの3か月あまり、私の暮らしていた村では特段の変化は起きていないようである。IRADのステーション長から少し前に送られてきた写真には、村の人々が布マスクをしている様子が撮影されていた。国際NGOの世界自然保護基金(WWF)の援助として配られたものであるようだが、村人の着用意識はまちまちで、着けていないものもたくさんいるとのことだ。上でも書いたが、そもそも非常に換気状態のいい村の暮らしで、マスクの着用が必要なのかどうかも疑問だ。村の人たちには、欧米人のようにハグを交わしたり顔を近づけて会話したりする習慣もない。
一方で、カメルーン国内の陽性確認者は7月28日現在で1万7千人を超え、400名近くが死亡している。今のところイタリアや米国のような悲劇的な事態には陥っていないが、東部州でも陽性者は出ており、いつ私たちの村にも感染が広がるのかわからない。新型コロナウイルスの不顕性感染率の高さと政府の医療モニタリング体制を考えれば、すでに到達している可能性も排除しきれるわけではない。
帰国して、複数の知人が「無事帰って来られてよかったね」と声をかけてくれた。しかし、私はそう言われるたびに、苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべ、あいまいな返事を返すことしかできない。それは、帰国が本当に「よかった」ことなのか、私自身の中ではっきりしないからだ。何も起きていない村からの脱出、という今回の出来事は、私がカメルーンにおいて、あくまで外国人であること、そして、国境閉鎖状態の国からチャーター便に乗って出国できる、特権的な地位におかれた先進国の人間であることを、強く意識させた。もちろん私の帰国を支援してくれた多くの方々には強く感謝している。また、各国の国際援助団体が今回の事態に対して、同じような脱出措置を講じており、今回の対処が適切なものであると考えるのが妥当なのだろうが、それはあくまで先進国の側から私を見た視点でのことではないだろうか。
私たち、先進国生まれのフィールド・ワーカーは、調査地に行けばその国の町や村の人々の傍らで暮らし、泣き笑いを分かち合ううちに、当地のコミュニティに溶け込んだような気持ちになる。しかし、どんなに表面的に同質化して見せても、非常時には厳然とした違いの前に、化けの皮が剥げるのだ。村の人たちは、コロナの来ていない村から逃げるように去った私を、どんな目で見ていただろうか。プロジェクトの現地スタッフやカメルーン人共同研究者は、政府の調達したチャーター便に乗って、より感染状況の深刻な日本へと飛び立つ私に対して、何を思っただろうか。私は自分のとった行動の正義を、いまだ見出せずにいる。