新型コロナウイルス流行下のエジプト滞在

2020年8月 5日

藻谷 悠介(東京大学大学院人文社会系研究科博士課程/日本学術振興会特別研究員DC2、中東近現代史)

コロナ禍以前のエジプト
まずはコロナ禍に至るまでの筆者のエジプト滞在について、簡単に記しておこう。筆者は19世紀シリア史を研究しており、とりわけエジプト近代化の父とも称されるムハンマド・アリーによるシリア支配(1832年から1840年)を主題としている。そしてこの研究を進めるための材料を求めて、2017年9月からエジプトの首都カイロに渡り、同地にあるエジプト国立公文書館(以下、文書館)で史料調査を継続してきた。この文書館は膨大な量の貴重な文書史料を所蔵しているものの、信じがたいことにカメラなどによる電子複写が原則禁止となっているため、研究に必要となる史料を全て手書きで筆写することが求められた。このため、筆者はエジプト滞在の中で日々文書館に通い、ひたすら史料を複写する作業に明け暮れており、フィールド・ワークと呼ぶのが憚られるほどに閉じこもった生活を送っていた。当初の計画では2020年6月末までこのような調査を継続する予定であったが、調査も終盤という時期にエジプトにもコロナウイルスが襲来したのである。

さて、コロナ以前のエジプトの風景についても触れておかねばならない。とはいえ、エジプトは日本でも比較的知名度の高い国で、多かれ少なかれ何らかのイメージを持っている人が多いと思われるので、詳しい説明は不要だろう。ピラミッドなどの史跡に押し寄せるツアー客、紅海リゾートでバカンスを楽しむ長期滞在者、街中を埋め尽くす人と騒音、溢れる排気ガスとゴミ、大声でお節介を焼いてくるエジプト人……これらは一部に過ぎずとも、エジプトで広く見られた光景であった。しかし、コロナ禍を経てこれらの風景は一変してしまうことになる。

コロナ禍の始まり
エジプトで本格的な感染拡大が始まったのは、アジアやヨーロッパよりも少し遅い2020年3月中頃であったが、筆者はそれ以前からコロナ禍の一つというべき事象に巻き込まれた。アジア系の人々に対する、いわゆるコロナ・ハラスメントである。エジプトにおいては元々アジア人差別が少なくなく、実際に受ける被害の多くは「チャイナ」と指さされる程度のものであったとはいえ、不快な思いをすることがあった。しかし、2月以降に世界的なコロナ禍の拡大がエジプト国内でも頻繁に報じられるようになると、これが深刻化した。

基本的なパターンとしては、「チャイナ」ではなく「コロナ」と呼びかけてくる、笑いながら口を覆う、露骨に距離をとる(これは致し方ない部分もあるが)、といったものだが、筆者の友人が経験したものまで含めると、物を投げられたり、スプレーを吹きかけられたりする非常に深刻な事例も見られた。筆者にとって何よりも面倒だったのは、コロナ以前に比べて差別的な言動に出くわすことが圧倒的に多くなったことであり、3月にもなると(幸運にも物理的な被害こそ受けなかったが)心理的にひどく疲弊してしまった。ただ、このような振る舞いをしてくるのは主に子供や若者であるので、登下校の時間帯の移動や人通りの多い場所を避けたりすることである程度回避できたほか、筆者が調査を行なっていた文書館のような場所では被害にあうことはほぼなかった。

後々気づかされることになるのだが、このようなハラスメントの常態化は、一方ではエジプト人にとってコロナ禍がまだ無縁のものであったことを示していた。ここで、エジプト国内の状況や政府の動向についても少し見ておこう。折しも2月から3月はエジプトの観光ハイシーズンに当たり、アジアやヨーロッパからも多くの観光客が訪れていた。2月下旬にはルクソールのクルーズ船で既に集団感染が発生しており、日本人にも複数の感染者が出たことはご存じの方も多いだろう。しかし、このような観光産業を通した感染拡大の兆しが見えていたにもかかわらず、エジプト政府は3月に入っても特に大規模な感染対策や制限措置をとることはなく、感染が確認されたルクソールやアスワンではホテルでの検温と消毒が実施されていた程度であった。このような消極的な態度は観光産業を優先する方針を反映したものと考えられ、この時期に2月から停止していた中国との直行便の再開を検討との報道まで出たほどである。


しかし、3月中旬になって政府の対応は一変する。この時期、筆者は日本から来た友人をアスワンに案内していた。コロナ・ハラスメントの息抜きにと決行した小旅行であったが、アスワンでもハラスメントから逃れることはできず、むしろその頻度が増えて辟易していた。そんな最中、3月16日にエジプト政府が突如、3月19日からエジプトの全ての空路を封鎖すると発表した。これまでの政府の態度や実際の感染者数を見ても、ここまで急に積極的な措置に方針転換するとは想像できなかった(全国的な休校措置など、布石もなかったわけではないが)。突然の発表に慌ててアスワンからカイロに戻る飛行機を予約し、友人の日本への帰国便も確保した。ホテル内にいた他の観光客も皆混乱しており、翌日のアスワン-カイロ便も落ち着かない様子の人々で満席となっていた。

アスワンの古代遺跡の一つ、カラブシャ神殿にて。
空路封鎖の発表前ではあったが、3月のハイシーズンにもかかわらず
既に観光客の姿は少なく、アスワンの他の遺跡も同様であった。
(藻谷悠介、2020年3月15日)

封鎖下のエジプト
当初の発表では空路封鎖は2週間の予定とされたが、ここまで急激な方針転換をしたからには、そのような短期間で措置が終わると見込めないことは明らかであった。実際に、空路封鎖は6月30日まで3か月以上にわたって続くことになる。ここからは立て続けに様々な措置が発表された。カフェや飲食店、宗教施設や観光地が閉鎖となり、海岸も立ち入り禁止になるなど、集団感染の対策がとられたほか、夜間外出禁止令が出され、感染爆発が起きた地域の一時的な封鎖も行なわれたようである。

中でも街の様子を一変させたのが、夜間外出禁止令であった。終日外出禁止令に踏み切ったようなヨルダンなどの周辺国と比べれば軽い措置とはいえ、その影響の大きさは一目瞭然であった。エジプトでは夜型の生活スタイルが一般的で、カフェやレストランも深夜まで開いていることが珍しくなかった。しかし、人の声や自動車の騒音で賑やかな深夜の様子は、一変して静寂極まるものになり、時折野犬の鳴き声が響くだけになった。夜間外出禁止の影響はそれ以外の時間にも及んでおり、日中でさえ交通量は目に見えて減少した。この影響でカイロでは大気汚染が改善したとの報道もあったが、実際にこの状況下で生活していると、それは極めて自然なこととして理解できた。

カイロの目抜き通りであるタハリール通りの夜間外出禁止中の様子。
筆者宅より22時に撮影。カイロを一度でも訪れたことのある人なら、
特にこの異様さが伝わるだろう。(藻谷悠介、2020年6月13日)


もう一つ人々の生活を大きく変えたのが、商業店舗をめぐる一連の措置である。閉鎖の対象となったレストランやカフェだけでなく、衣料品店などでも休業するところは少なくなかった。薬局やスーパーはほぼ全てが営業していたが、特にスーパーは入り口での検温や消毒、店員のマスクと手袋着用といった措置が広く見られ、(これは世界的な動向であるが)店内には見慣れない光景が広がっていた。また、銀行やボーダフォンのようなキャリアショップでは、店内の長時間の密集を避けるため、整理番号が呼ばれるまで店外で待機することが求められており、炎天下の通りに人だかりができるという奇妙な光景も見られた。

ボーダフォンの店舗前には、開店中は常に順番待ちの人々が待機している。
炎天下のため、待つだけでも一苦労だ。(藻谷悠介、2020年6月9日)

エジプトに特徴的な点として、デリバリー販売をめぐる動きが挙げられる。エジプトはコロナ禍以前からデリバリー先進国であり、庶民的な店から高級店まで殆どの店がデリバリーの体制を整えていた。そのため、商業店舗は閉鎖されたものの、その大半はデリバリーで営業を続けており、さらには夜間外出禁止の時間帯もデリバリーは可能という状態であった。デリバリーの費用は無料か少額で、デリバリー用のアプリも普及しており、さらにスーパーや薬局にも注文が可能とあって、筆者の巣ごもり中も買い物については大きな不便は生じなかった。この点においては、エジプトは多くの先進国よりもコロナ禍にスムーズに対応できたといえる。

また、筆者にとって予想外の変化だったのは、コロナ・ハラスメントがピタリと止んだことである。街に出る若者の数が減ったことも影響しているだろうが、それを差し引いて考えてもこの変化はあまりに顕著であった。エジプト人にとっても、コロナ禍は差し迫ったものとなり、「からかい」のネタとしては忌避されるようになったのだろうか。そもそもこのような行ないをしていた人々の考えに全く同意できないため、この変化についても未だに十分に理解することはできていない。

封鎖下の研究生活
当然のことながら、筆者の研究生活もコロナ禍の影響を強く受けることとなった。筆者は空路封鎖後もエジプトに残ることとなったが、これは封鎖直前に緊急帰国することが困難であっただけでなく、空路封鎖発表後も調査地である文書館は開いており、かつその時点では感染者数も日本より少なかったためであった。文書館には未だに閲覧・筆写できていない史料が残っていたのである。しかし、無情にも数日後には文書館も閉鎖となり、結果的に帰国するまでには二度と文書館を利用することはできなかった。

こうして文書館での調査が不可能となってしまったため、筆者も巣ごもり生活を送ることとなった。上述の通りデリバリーが非常に安価かつ便利であり、かつエジプトのアパートは非常に広いものばかりであるため、外国人が巣ごもり生活を送る環境としては世界的に見てもエジプトは恵まれていた方で、筆者もその恩恵に与ったと感じている。日々の研究時間の多くはこれまでにエジプトで取集した史料の整理・読解に充てつつ、エジプト人のアラビア語教師に史料の講読も行なってもらった。しかし、この講読にしてもオンラインでの実施に変更されたため、フィールドでしかできない研究活動というものはなくなってしまった。一方で、生活にメリハリをつけるためにエジプトから日本の所属先のゼミにオンライン参加することになり、エジプトにいながらフィールドよりも日本と繋がっている奇妙な生活になってしまった。こういった状況を見ても、コロナ禍がもたらした変化の大きさと特異性を思い知らされる。

感染の拡大
さて、初期対応に一貫性こそなかったものの、結果的には国内で感染拡大が進む前にかなり厳しい措置をとったエジプトだが、様々な要因から人々の緊張感も次第に緩んでいくことになった。5月にかけてゆっくりとだが着実に感染数が増加したことが、このことを裏打ちしている。空路封鎖が始まった時期では1日の新規感染者数がほぼ50人に満たない状況であったのが、4月末にはおよそ250人にまで増加した。また、筆者が実際に見たところでは、政府が外出禁止の開始時間を当初の19時から20時、21時と次第に遅らせたことに伴い、日中の人出も確実に戻っていったように窺われた。一度厳しい措置を取った上でそれを少しでも緩めると、人々に気の緩みが生じるのは自然なことだろう。政府が対策の長期的な見通しを打ち出していなかったこともあり、外出禁止の緩和が政府からの言外のメッセージと人々に受け取られたとしても無理はない。

そして、5月からはいよいよ感染拡大が加速し、5月末には1日の新規感染者数が1500人にも上った。この最大の要因として挙げられるのが、4月24日から5月23日までの断食月(ラマダーン)である。イスラーム教徒が人口の9割以上を占めるエジプトにおいて、毎年の断食月には集団礼拝や地元での親族の集まりなど、人の移動や集団行動が他の時期よりも増加する。しかし、人々の不満を抑えるためか政府は感染拡大の深刻化が見込まれる今年の断食月について、特段新しい措置を打ち出さなかったばかりか、夜間外出禁止の開始を21時にまで遅らせるなど、むしろ措置を若干緩和させた。このような政府の対応もあってか、実際に新規感染者数は5月の後半からうなぎ上りに増えており、断食月が感染拡大に影響したことが推察される。一方で、筆者の身の回りでは、通りを埋め尽くして行なわれる集団礼拝やレストランで日没を今か今かと待つ人々など、例年当たり前だった光景は全く見られなかった。断食月の風景もコロナ禍では完全に異なり、イスラーム教徒ではない身としてもかなり寂しく感じてしまうほどだった。

こうして5月に本格的な感染拡大を迎えてしまったエジプトだが、実際にはここが感染拡大のピークであり、その後はほぼ1か月間、毎日の新規感染者が1500人前後で推移し、7月に入ると減少しておよそ1000人を下回るようになって7月20日現在に至る。この推移について評価することはここでは避けるが、5月の感染拡大を踏まえた政府の方針と人々の行動の変化は興味深いものであった。まず、政府は5月24日からの5月29日までの断食明け祝祭の連休を危険視し、夜間外出禁止の開始時刻を17時と大幅に早め、また県境をまたぐ移動を禁止するなどの強めの措置を打ち出した。この頃には既に新規感染者数が急増しており、人々の間にも危機感が共有されていたように感じられた。日中の人通りも断食月中よりはかなり減ったように見受けられた。例年ならば連休を利用して遠出していた筆者も、今年は家から出ずに過ごすことになった。

封鎖の解除
しかし、連休後の6月になると、新規感染者数は減っていないにもかかわらず、またしても政府は一転して緩和措置を立て続けに実施し始めた。官民の屋内施設でのマスク着用こそ義務化されたものの、夜間外出禁止の開始時刻は再び20時にまで遅らされ、ショッピングモールも再開した。このころから政府は「コロナとの共生」をスローガンとして打ち出し、遂に6月27日からは夜間外出禁止の解除と宗教施設の開放、レストラン、カフェ、映画館、運動施設などの再開に踏み切り、7月1日には空路封鎖を解除して、観光客も受け入れることにした。結果的には空路封鎖前より新規感染者数が数百倍に膨らんだ時点で空路封鎖を解除したことになるが、空路封鎖以前の消極的な姿勢も踏まえて考えると、ここまで方針が大胆かつ急に二転三転した国は珍しいのではないだろうか。

これらの緩和方針によって、人々の行動も大きく変化した。日中の人通りや交通量もより一層増加したが、なにより夜間外出禁止の解除によって夜間に賑やかさと騒がしさが戻ってきた。深夜になっても鳴り響くクラクションの大合奏を聞くと、再びこの状態に戻ってしまったかとうんざりさせられる一方、どこか懐かしさを感じたことも否定できない。良くも悪くも、この喧騒がエジプトの本来の姿であることは間違いない。再開したレストランなどにも人が戻りつつあり、席数が少ない店では満席になっている店もいくつか見られた。収束には程遠い現状に対して人々の危機感は千差万別だが、ここまでの反動もあってか元の生活に戻ることを選択した人も多いように見られた。

これほど経済活動の再開に向けて政府も社会も舵を切ったとはいえ、もちろん全てが元通りとはいかない。レストランやカフェなどは収容人数の25%以下を守るように決められているだけでなく、22時には店を閉めることとされ、さらに後者の措置については、コロナ禍に関係なく今後恒久的な措置となるという。人々の反発は必至で、この点については今後見直しの可能性も低くないと考えているが、少なくとも店舗経営の在り方をめぐる議論は長期化することは疑いないだろう。街中を歩けば9割ほどの人が炎天下でマスクをしている光景も、以前から考えれば想像もつかないほど違和感のあるものだ。

また、筆者の研究生活に話を戻せば、エジプト国立公文書館は7月になっても開くことはなく、空路封鎖以降は一度も利用できないままに筆者自身も7月4日に日本に帰国することになった。今後はどうなるか、エジプトのみならず世界的にも見通しも立たないが、感染拡大も収束しているとは言い難い現状では、文書館での調査は当分望めそうにない。文書館もオンラインでの史料公開を進めるという報道があったものの、実際には機能しない検索フォームが新設された程度である。デリバリー販売の事例と対照的に、コロナ禍以前から史料公開の体制が整っていなかったことが大きく影響しているかたちだ。フィールド・ワーク再開のためにも、月並みながら筆者もコロナ禍の世界的な終息を願ってやまない。

(本稿はJSPS科研費19J13736 による研究成果の一部である。)

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