コロナ時代のフィールドとのつながり方(2)―ケニア北西部の牧畜民ポコット、および首都ナイロビの知人たちとの交流の記録

2021年1月26日

稲角 暢(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(休学中)
/日本学術振興会ナイロビ研究連絡センター(副センター長)、生態人類学、地域研究)

食料確保への模索(ナイロビの自宅の場合)
2020年3月から4月にかけての時期。まだ身近には感じられないコロナ感染のリスク以上に、ケニアの人びとが気にかけていたのは、政府の感染封じ込め措置にともなう、収入減少への不安、ひいては食料の確保(生存の確保)への不安であった。前回の記事に書いた通り、この時期には、コロナの感染発覚、そして感染封じ込め措置の発表が続いていた。他国と同様、ケニアの経済活動の停滞にともない、職を失ったり、収入が激減する人が続出すること、そしてそのことで人びとの生存が脅かされるのではないかということを、とりわけ首都ナイロビの人びとは懸念していた。このときわたしは、このさき食料・日用品などが品薄になったり、入手できなくなったりしていかないか?ということを、まずは見極めようと考えた。

わたし自身の食料をはじめとする生活必需品については、3月上旬から中旬にかけて、備蓄を充分に進めることができていた。そのなかで、スーパーマーケットがまったく品薄になっていない様子は観察できていたし、3月下旬にはオンラインショッピングによる食料・日用品の自宅配達が機能することも確認できていた。




サムネイル写真と同様、筆者の自宅食料備蓄の一部
(稲角暢撮影、2020年3月)



ナイロビでは、Jumiaと呼ばれるオンラインショッピング・サイトが、よく使われている。食料としては、米、トウモロコシ粉、小麦粉、麺類、長期保存が可能な牛乳などの主食、砂糖をはじめとする調味料や料理油類、缶詰などの保存食、ミネラルウォーターやジュースなどの飲料が、品ぞろえでは劣るものの、スーパーと変わらぬ値段と、数百円ほどの送料を追加するだけで、自宅まで配達してもらえた。



食料だけでなく、マスクや手指消毒液(サニタイザー)も手に入るほか、台所用品、洗濯用品、洗面用具、乳児用品、子ども用のおもちゃ、化粧用具なども、ひととおりの品ぞろえがあるので心配ない。野菜や果物、パンや卵、肉や魚などの生鮮食品の取り扱いがないこと、ガスボンベの交換などのサービスがないことは残念であったが、それは個人的な知り合いの業者やインターネット上で検索しうる業者に頼めば、自宅まで配達してもらえるため、こちらも問題はなかった。わたしの場合は、知り合いのバイクドライバーに頼んで、前回の記事で触れた市場(トイ・マーケット)の八百屋さんから、月に2度ほど生鮮食品などを配達してもらっていた。オンライン上で見かけた生鮮食品デリバリー業者などに頼らなかったのは、味の保証がなかったことと、そしてもちろん、身近な友人の収入につながってほしかったことが理由である。



近年拡充されはじめていたこうしたオンラインサービスと、これまでの知己に頼ることができれば、わたしに限らず、「お金を持っている人」にとっては、ナイロビで自宅に籠るのは、容易なことであった。




首都ナイロビの官庁オフィス街(瞿黄祺氏撮影、2019年10月)

食料確保への模索(ポコットの場合)
自身の食料確保の懸念が払しょくされた一方で、わたしが非常に心配していたのは、ポコットへの食料供給が止まらないか?ということであった。わたしと付き合いのあったバリンゴ郡のポコットの人びとは、家畜を売って得た現金で、トウモロコシ粉や砂糖、野菜などを買い、家畜から搾るミルクとともに主な食事としている。もちろん、このうちの購入食料はこの地域で生産されたものではなく、南方の都市からのトラック輸送で運ばれてきたものである。そして、このトラック輸送は、ナクルという大都市から北上する1本のルートに基本的に依存していた。もしも、このたった1本の輸送ルートが、何らかの影響で警察や軍などに閉鎖された場合、ポコットへの食料供給は突如不安定になる。過去数年間でこうした輸送路封鎖が何度かあったがゆえに1)、コロナ感染拡大の展開次第で、この輸送ルートが遮断されてしまう可能性が、たやすく想定された。

この懸念に関しては、2020年3月上旬からホストファミリーの父に相談していた。父はポコット社会のなかで何らかの立場があるわけではないのだが、小さな食料雑貨店を営んでいた経験があることや、食料輸送に係わる人脈があること、バリンゴ郡北部の3つの町近くそれぞれに妻のホームステッド(家とその敷地)があり、3つの町とその周辺の地域の食料供給事情に詳しいことなどから、相談するには適任だと思われた。父に依頼して各種の手配を進めた結果、3月下旬時点で、南方の大都市ナクルからポコットの2つの町へ、1袋90㎏の粒トウモロコシを計100袋送ることができていた。トウモロコシさえあれば、通常より早い3月下旬から雨季の雨が降りはじめていたポコットでは、家畜からのミルク搾乳量が増えはじめるため、少なくとも飢えることはない。

トウモロコシの手配をはじめた3月の時点では、この食料は、「あげる」のか、「交換する」のか、「売る」のか、いつ誰にどうやって渡すのか、わたしは特に決めていなかった。支援食料として配布する必要があるのか、人びとが現金を得られない際に、ポコットの人びとに有利なレートで家畜と物々交換するのがよいのか、あるいは、食料品店とほぼ同様の金額で売却して、売上で更なるトウモロコシを購入して供給を安定させるほうが良いのか、まだ不明瞭な状況だったのである。

3月から7月まで、ポコットへの通常の食料供給は、ある程度細くなりはしたものの、さいわい継続はしていた。4月以降、全国の公の家畜市は閉じられてしまったが、都市からの家畜商人が、山のなかでの家畜の闇取引を精力的におこなったため、ポコットの経済は動いていたのである。そのため、父とわたしのトウモロコシ供給が、人びとの需要を満たすのに貢献したのか、あるいは、通常の食料供給を担うポコットの食料品店の収入に損害を与えたのか、7月の現時点では判断が難しい。




家畜商人のトラックでポコットから都市へと運ばれるヤギたち
(稲角暢撮影、2011年10月)



このトウモロコシは、結局、ホストファミリーの父が元値に少しだけ上乗せし、通常の食料品店の値段より少しだけお得な値段で、ポコットの人びとに売却した。通常の食料供給がある程度細くなっていたため、トウモロコシへの需要は高まっており、父は薄利多売で、トラック輸送を合計7回手配し、トウモロコシを合計90㎏×360袋、主に他の食料供給者の手が届きにくい地域にまで輸送した。6月中旬頃から通常の食料供給が3月以前の規模まで復活しはじめ、7月上旬から公の家畜市が再開し、都市間移動制限が解除されたことを受けて、父はこの輸送作業を7月上旬に停止した。



結局のところ、7月の現時点までは、ポコットではある程度経済が動き、食料供給が維持されていた。「通常の」貧困状態にあった人びとは、相変わらず苦しい生活をしていたが、バリンゴ郡のポコットにおいて、コロナによる食料確保への影響はそれほどなかった、と結論付けられそうであった。




ポコットの倉庫に山積みにされた粒トウモロコシ
(ロクワニャング・カティライ氏撮影、2020年7月)




トラックでポコットへと運ばれてきた食料の一部
(マリリン・カクコ氏撮影、2020年7月)


  1. ^ 隣接民族との抗争の際に、道を通過する車が他民族集団に攻撃されたり、民族間の家畜略奪の取締りと、家畜略奪者出身民族への制裁のために、軍や警察が軍事行動を展開したりした事例がある。

食料確保への模索(ナイロビの知人たちの場合)
ポコットへの食料供給の手配を済ませた後、次に目が向いたのは、ナイロビのスラムに住む知人たちの感染リスクと経済状況であった。わたしの知り合いの多くは、インフォーマルな客商売をしており、2011年頃から、わたしはかれらの客の一人であった。食堂や床屋(髪結い屋)、衣類・鞄・携帯電話・生活用品などの販売店・修理店、八百屋さんもいれば、手作りポテトチップス屋さんもいた。もともとの収入も多くはないかれらだったが、客の減少、感染リスクや夜間外出禁止ゆえの時短労働、あるいは自宅での蟄居などが原因となり、業種にもよるが、かれらの収入はおよそ激減していたと言える。さらに、かれらの家族、友人、隣人のなかには、失業したり、商売をたたんだりして、わたしの知人たちの収入や貯蓄に頼らざるをえない者が少なからずいた。




トイ・マーケット内で穀類の店が多い通り
(ブライアン・キベット氏撮影、2019年7月)



わたしの知人の多くは商売人であり、スラムの人びとのなかではどちらかというと収入が安定している部類に入ると言える。とはいえ、そのなかには、切り崩せる貯蓄がない人びと、あるいは頼ってくる縁者が多い人びともいる。わたしは、2020年3月下旬に知人たちにひととおり電話をかけ、それぞれの状況を確認し、その状況によってはわたしの方から申し出て、いくらかのお金を送金した。なかには、わたしの申し出に、「まだ大丈夫だから、大変になったらお願いする」と言う人や、「自分は大丈夫だが、家族や知人が困難を極めているから、そのお金をそちらに回してもいいか?」と聞く人もいた2)



スラムにおけるコロナの感染拡大速度は、7月現在もいまだに正確には把握されていない。3月当時は、危機度を判断するための情報はさらに少なく、その後の状況も読めなかった。当時のわたしは、知人たちが食料にアクセスできる機会がのちのち限られてしまった場合、かれらが感染のリスクを負いながら、人ごみに揉まれなければならなくなるくらいであれば、たとえ人を区別することになろうとも、わたしの知り合いたちには「すぐに」食料を確保するための選択肢を呈示しておきたかったのである。



これらの送金はナイロビの知人に対するおそらく初めての「金銭の贈与」であり、わたしたちの関係性に幾分か影響を与えたことが想像される。しかし、少なくとも7月現在の時点では、このときの送金をわたしは後悔していない。これらの送金によって、わたしの知人や、そのまた知人たちは「3月、4月時点でのスラムの状況」と「感染拡大の経過」を、余裕をもって観察する猶予をわずかにえられた。当時、政府からの支援が期待できないなか、政治家や教会組織、NGOなどによる支援食料が届きはじめていたのだが、初期の支援食料配給の現場は混乱を極めた。列をなした人びとが揉み合いになったり、社会的距離を保てていない人びとの列に対して、警察が介入したりしていた。また、買い物帰りの人の食料や所持品が、ひったくり強盗に狙われることもあったそうである。このような「混乱」に、わたしの知人が晒されるリスクは、わたしの早めの送金によって少しは軽減されたのではないか、と(知人たちの感想を参照しつつ)推測している次第である。



その後、徐々に人びとはこの新たな状況に慣れ、食料支援の現場や買い物帰りの場面などで注意を払うようになったと聞いている。7月現在、知人たちの外出する頻度は3月~4月当時と比べて増加しているが、買い物を落ち着いてできるようになっているそうだ。ただし、その後も経済活動は落ち込んだまま感染リスクは上昇しており、要望がある際には、わたしは知人たちに少しずつお金を送金し続けている。


  1. ^ 4月以降、徐々に活性化していった教会組織やNGOによる食料支援の際も、こうした人の繋がりを介して、かなりの範囲に救援食料は広がったのではないか、と想像している。しかしもちろん、総じて見ると、スラムにおいて、各家庭の食料とお金の蓄えが絶対的に足りていない状況が続いていると言えよう。

暴力への恐れ
ケニア政府は、2020年3月から4月にかけて、前回の記事で述べた一連の閉鎖、隔離、防疫措置を発表する一方、その感染封じ込め措置を国民に徹底するために、当時、全国に70,000人にも及ぶ警察官を配備した。その後、これらの警察官は、人びとに過剰に暴力をふるい、都市部では、死者が出る事件まで続出してしまった。ケニアの報道機関によると、ケニア国内で、警察の暴力により5月末までに15人が亡くなったそうである。

他方、ポコットにおいては、コロナの感染封じ込め措置とは関係なく、5月に軍が配備されてしまった3)。民族間の家畜略奪を根絶するために、何年も続いている「銃狩り」のためである。戦車までも使いながら、この軍の部隊はバリンゴ郡北部を数週間にわたって巡回し、威圧的に銃を探し求めたのであるが、ついでに、とでもいうように、政府の求めるコロナ対策措置に従っていないとして、町に住むポコットの人びとを殴ったり、金銭をむしり取ったりもしていたと聞いている。「銃狩り」の軍事行動の被害として報道された事件には、5月末にポコットの小さな町がひとつ焼き討ちにされた事件、放牧中のポコットの少年が撃たれた事件、などがあった。その後、ポコットの人びとから郡政府へ抗議が寄せられた結果、軍は撤退したそうである。例年のことであるとはいえ、コロナが拡がっている状況であろうとも、銃狩りを優先させた軍は、銃狩りへの政府の執着、そしてその武力・暴力を人々にまざまざと見せつけていったのであった。




ピックアップ車両を改造した「戦車」がポコットの町を通過する
(ポリット・カティライ氏撮影、2020年6月)



こうしたケニア政府による「暴力によるコロナ封じ込め措置の徹底と治安維持」は、ケニアの人びとの行動抑制に、ある程度功を奏したのは確かなようだ。人びとは警察による理不尽な暴力を恐れ、政府が発表する措置に表向き従順になった。およそすべての国民がマスクを手に入れ4)、警察と遭遇する見込みのある場所での装着を心がけた。教会やモスクでの礼拝や集会は、少なくとも都市部では完全に停止し、夜間は外出禁止時間の開始よりもはるかに早い時間に帰宅することが心がけられるようになった。



こうしたケニア政府の「暴力的」「強権的」な姿勢は、コロナ到来以前からケニアで続いていたことではあるのだが、その後、政府に対する不信感はさらに深く国民の心に刻まれているようにみえた。ケニア政府はコロナ封じ込め措置と並行して、「税や送金手数料の軽減」「大統領を含む、一部の政府高官の減給」「社会的弱者への支援」「芸術、スポーツへの支援」など、経済活動の落ち込みにさらされ、行動の不自由を強いられている国民の不満をなだめる施策も発表している。しかし、こうした政府の施策を評価、あるいは賛美する声はまったく聞こえてこない。たとえば、4月末以降、「コロナの影響を受けて苦しむスラムの貧しい若者に割り当てる公共事業」が組まれたが5)、こうした具体的に目の前に現れた支援策に対してすら、「利益を享受できる若者の選別に、役人や有力者の影響が出ている」「支援が届く過程で、どうせ着服されるに違いない」「支援内容は十分な額ではない」などの不満がケニア各地で出ている。



また、暴力や強権で抑制されていた行動は、暴力が取り払われた瞬間に、反動的・反射的に活性化してしまう傾向があると推測される。それまで、政府から通達された措置に人びとが得心して行動を抑制していたわけではない場合、コロナの感染拡大の状況にかかわらず、抑制されてきた行動が一気に解放されてしまう恐れがあろう。感染者数・陽性率は増加しているにもかかわらず、6月から7月にかけて、政府の封じ込め措置は次々と緩和されており、今後の感染拡大が懸念される。



次回の記事では、人びとがコロナそのものに対して抱いている印象や、人びとがコロナに対するよりもはるかに心を砕いている、経済上の問題、あるいは生業上、生活環境上の問題について事例を紹介し、人びとのコロナに対する心理的距離感について記しておきたい。

※記事一覧サムネイル写真:ナイロビの知人がバイクで届けてくれる野菜・果物備蓄の一部(稲角暢撮影、2020年7月)


  1. ^ ケニアの報道では、これは「軍」ではなく「警察」であると報じられている。しかし、わたしのフィールドの人びとによると、ケニア国防軍(KDF: Kenya Defence Forces)、警察総合任務部隊(GSU: General Service Unit、特殊部隊とも)、そして通常の行政警察(AP: Administration Police)が、当時、現地で活動していたようであった。5月に配備されて、後述の「銃狩り」を主導したのは、国防軍であったと言われており、コロナによる休校後、空になっていた高校寄宿舎で生活し、校庭には戦車を3台並べていたという。その後、6月に国防軍は撤収し、総合任務部隊、および行政警察のみが、以前の通り駐屯しているそうである。
  2. ^ ケニアでは、4月上旬ころから、およそ50円~100円ほどの布マスクが都市部・周縁部を問わず、広く出回るようになり、人びとは毎日マスクを手洗いして連続使用をしているという。警察と出会う機会の少ないポコットでは、バンダナで口を覆うのみでコロナの飛沫感染予防に対処する者も多かったらしいし、町に行かないからマスクすら買わなかったという人びと(主に、老人、女性、子ども)も多い。ちなみに、こうした廉価の(あるいは寄付された)布マスクを、ナイロビの「お金を持っている」人びとは、「防疫機能がない」として着用したがらないと聞いた。その代わりに、購入したサージカル・マスクや高機能マスクを使用する者が多いようである。
  3. ^ Kazi Mtaani(スワヒリ語で、地元のための仕事、の意)と呼ばれるこのプログラムにおいて、4月末からのフェーズ1(パイロット版)では、ナイロビをはじめとする、コロナの感染が顕著だった8郡において、スラムの若者およそ3万人を雇い、道路掃除やごみ収集、消毒作業などをおこなわせたという。およそ500円ほどの日給が支払われ、月に22日間働いた者もいたらしい。7月からの第2弾では、およそ100億円の予算が組まれ、全国47郡27万人の若者の雇用を、6ヵ月間創出するとされている(参照元URL:https://housingandurban.go.ke/national-hygiene-programme-kazi-mtaani/等)。
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