コロナ時代のフィールドとのつながり方(1)―ケニア北西部の牧畜民ポコット、および首都ナイロビの知人たちとの交流の記録

2020年12月14日

稲角 暢(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(休学中)
/日本学術振興会ナイロビ研究連絡センター(副センター長)、生態人類学、地域研究)

ポコット、そして、ナイロビ
「コロナ1)とかいう、新しい病気が流行っているらしいが、どういうものなんだ?」

フィールドのホストファミリーの父から電話が来たのは、2020年3月上旬のことであった。当時、ナイロビに住んでいたわたしは、

「咳をともなう風邪みたいな症状なんだけど、新しい病気だから薬がなくて、亡くなる可能性が高いみたいだよ。」

と説明した。そして、父に請われるまま、世界各国で公表されていた感染者数、死者数などの情報を次々に添えた。

「なんて悪い病気なんだ。でも、(そんな病気は)すぐに終息するだろう。」

と、いつものとおり、特に根拠はなく、しかし断定的な口調の父であった。

わたしは、2011年以来、ケニア北西部のバリンゴ郡において、牧畜民ポコットの人びとを対象に生態人類学的な調査をおこなっている。かれらの放牧活動や家畜との関係のあり方に注目すると同時に、定住化や学校教育の影響、土地の私有化など、近年の地域社会の変遷も追っていた。

2017年4月から2020年7月末の現時点まで、わたしは大学院を休学し、日本学術振興会(JSPS)ナイロビ研究連絡センターの駐在員(副センター長)として、ケニアの首都・ナイロビで3年あまり暮らし続けている。仕事のかたわら、たまの休暇にポコットの地域(以下、ポコット)へ帰り、ホストファミリーをはじめとするポコットの人びととの交流を続けることが、わたしの至上の楽しみであった。ホストファミリーの子どもたちの一部は、ナイロビのわたしの家で一緒に暮らしながら、学校に通っており、ポコットの人びとと連絡を取りあうことは、わたしの日常の一部であった。

牧畜民ポコットの人びとに対する、「辺境の、野蛮で、無知な牧畜民」という、ナイロビの人びとのイメージは、いまだに根づよい。しかし、ポコットの人びとには、かれらなりの知識のあり方、人生の楽しみ方があり、また一方で「外の世界」に対する興味関心も旺盛である。「外の世界」が、最終的には自分たちの生活の基盤とつよく繋がっているという感覚もあり、コロナの感染拡大をはじめとする「外の世界のできごと」は、どこか遠い場所の話ではあっても、自分の地平につながった話として、詳しく知りたがるのであった。

儀礼において家畜の血とミルクを混ぜて飲むポコットの男性たち
(稲角暢撮影、2011年10月)
割礼儀礼の際に行進するポコットの青少年たち(稲角暢撮影、2016年3月)

  1. ^ ウイルス名は、2019-nCoVや新型コロナウイルスと呼び、疾患名は、Coronavirus Disease 2019(略してCOVID-19)と呼ぶのが、2020年7月現在は正しい表記であると思われる。しかし、フィールドのポコットの人たち、あるいはナイロビの「庶民」の間では、両者はともに、単に「コロナ」と呼ばれている。この呼称・略称に付随するさまざまな問題も自覚しつつ、このウイルスに対するフィールドの人びとの距離感に寄り添いたいという考えから、本稿では、ウイルス名、疾患名、ともに「コロナ」という呼称を用いることとしたい。

ポコットの人びととのこうしたつながりの一方、この3年あまりのナイロビ生活のなかで培われた他の民族の人びととのつながりも、わたしにとって大切なものとなっていた。勤務しているセンターの現地職員はもちろん、たとえば、日本人研究者をともなってセンターを訪問するケニア人研究者やケニア人調査助手たち、そして、2011年以来、長年わたしが通っている、古着・青果・生活用品などが売られるナイロビの屋外市場トイ・マーケットで出会う人びと。ケニアの友人・知人、と呼べるこれらの人びとのなかには、ケニアの周縁地域2)に住んでいる人、そしてナイロビのスラム3)に住んでいる人の割合が圧倒的に多かった。

今回の連続エッセイでは、ケニア各地に散らばるわたしの知り合いたちが直面しているコロナ禍の状況にも触れつつ、ポコットの人びと、そしてナイロビのスラムの人びとのコロナへの対し方を中心に紹介したいと思う。

2020年7月末頃のトイ・マーケット内の大通り
(ビクター・マインディ氏撮影、2020年7月)

ケニアにコロナがやってきた
フィールドの父との会話がなされた、2020年3月。とうとうケニアにコロナが到来した。

2020年1月に中国・武漢での感染拡大が明らかにされて以降、コロナが世界各地に飛び火する状況を、ナイロビの人びとは固唾をのんで見守っていたと言えよう。2020年1月から2月上旬の段階では、中国人、およびアジア系の外国人に対して、「コロナ」という呼称が投げかけられたり、忌避する事例もあったとも聞く。わたし自身は、いかなる悪意にさらされることもなかったが、とりわけWhatsappなどのSNS上では、中国人へのバッシングが盛んだったらしい。2月28日には、大統領令が発出され、「新型コロナウイルス国家緊急対策委員会(The National Emergency Response Committee on Coronavirus)」が設置された。

ナイロビに住んでいたわたし自身が、コロナの存在を徐々に意識しはじめたのは、2月も中旬になってのことだった。ナイロビの人びとが、とりわけヨーロッパにおける感染の拡大について、いつ、わが国にも到来するのかとざわめき、噂しはじめていたのを覚えている。

ケニアでは、3月上旬から、コロナの疑い症例がいくつか報告されはじめていたため、3月13日(金)に、ケニアにおけるはじめてのコロナ感染が確認されたときにも、ナイロビの人びとに大きな驚きはなかった。スーパーマーケットへ食料品や日用品の買い込みに走った人も少なくなかったが、大混乱があったというほどではない。マスクや手指消毒液(サニタイザー)以外の商品は、品薄にすらなっていなかった。

スーパーマーケットで購入個数が制限された手指消毒液
(稲角暢撮影、2020年3月)

  1. ^ 具体的には、マチャコス郡、カジアド郡、ナロック郡、ビヒガ郡、カカメガ郡、トランス・ンゾイア郡、トゥルカナ郡などに散らばっている。
  2. ^ 「スラム」という呼称には、蔑視的な色合いが少なからずあると個人的に感じており、ナイロビで言及する際には、できるだけそれぞれの地域名を使うようにしている(もっとも、地域名そのものが、蔑称となっている場合もあるのだが)。しかし、読者の解しやすさを考え、本稿では「スラム」と総称することとする。わたしの知人が住むのは、キベラ、カワングワレ、カンゲミなど、ナイロビのスラムのなかでは、比較的貧困の程度が高くないとされる地域である。

最初の感染者が確認された直後の3月15日(日)。ケニアのウフル・ケニヤッタ大統領は、ケニアで最初の感染事例が確認されたこと、そして今後の国の対応を国民に発表した。プライマリー・スクール(小~中学校)、セカンダリー・スクール(高校)の休校が決定され、寄宿学校の生徒たち、大学生たちにも、その週には自宅に帰省するよう指示が出た4)。仕事をしている人びとの在宅勤務が推奨され、現金ではなく、携帯電話の電子マネーや銀行送金を利用するよう呼びかけられた。この対応、とりわけ休校が決定される速さには、驚かされもしたが、ヨーロッパにおける凄惨な感染拡大状況を知るケニア国民には、賛意を示す者が多く、世間はすみやかに大統領の指示に従いはじめたと言えるだろう。

翌3月16日(月)に、上司のセンター長とわたしは、ナイロビ研究連絡センターを閉じ、現地職員4名に自宅待機を指示することに決めた。かれらの月末の給料日を待っていては、状況の展開次第で食料入手が困難になる可能性もある。わたし個人のお金からまとまった額を職員に貸し、2~4週間分ほどの食料・日用品を、その日のうちに購入するよう勧めた。3月上旬以来、わたしが個人的に貯めこみはじめていた、主食となるトウモロコシ粉や砂糖、長期保存牛乳などは、スーパーマーケットへできるだけ行きたくないという職員たちに、求められるがままに売り渡した。事務所備品としてのマスクや手指消毒液(サニタイザー)なども配り、ガソリンや軽油などの車両・発電機の燃料を備蓄した。

臨時休所中のJSPSナイロビ研究連絡センター(稲角暢撮影、2020年7月)

その後、感染者数が徐々に増加しはじめるとともに、ケニア政府は、3月下旬から4月上旬にかけて、立て続けに感染封じ込めのための措置を発表する。国際旅客便の運航は停止され、夜間の外出は禁止された。ナイロビ首都圏をはじめとする感染拡大地域の都市間移動が禁止・制限されるとともに、マスク着用、社会的距離の確保が要請され、違反者には罰金や禁固刑を課すことが決定された。

大手スーパーマーケットの入り口に立てられた防疫措置の案内
(稲角暢撮影、2020年3月)

こうした感染封じ込めの措置の発表を、わたしをはじめ多くの「ナイロビの富裕層」は歓迎していたようにみえた。まだ感染がそれほど広がっていないケニアの状況で、確かな封じ込め措置を取ることで、2月から3月にかけてのヨーロッパにおける感染拡大のような、急速な拡がりを防げるのではないか、と考えていたのだ。しかし、こうした政府の封じ込め措置は、当然のごとく、国民生活への充分な支援策を兼ね備えてはいなかった。

次回の記事では、ケニアにおいて人びとの生存そのものが、コロナによってではなく、経済的・暴力的側面から脅かされていた状況を記しておきたい。

※記事一覧サムネイル写真:ケニアの牧畜民ポコットのホストファミリー(稲角暢撮影、2015年3月)


  1. ^ 学校の先生たちのなかには、生徒を帰宅・帰省させたあとも、学校設備をチェックしたり、報告書を書いたりしている方が少なからずいるようである。ポコットでは、パソコンにアクセスできる町まで出かけて、先生たちは報告書を毎週メールで郡の教育局に提出している、という話を聞いた。かれら公務員は、コロナが広がるなかでも、毎月の給料をもらい続けており、生活は比較的安定していると言える。
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