COVID-19禍のバングラデシュでの生活

2020年11月19日

田中 志歩(広島大学大学院国際協力研究科博士後期課程 /日本学術振興会特別研究員DC1、比較教育学、地域研究)

1.はじめに
私は、博士論文の調査のために2019年度より断続的にバングラデシュを訪れていた。2020年3月末に一度帰国し、初夏の再訪に備え資料の整理や文献調査を日本で行おうと考えていた。しかし、3月8日に国内初の感染者(イタリアからの帰国者)が出てからというもの、国際線乗り入れの規制が始まったことを皮切りに、1日1日と状況がめまぐるしく変化した。一時帰国予定であった3月末にはすべての国際線の乗り入れが禁止、全国でロックダウンが始まり、帰国困難となったことから現地に残る判断をした。

バングラデシュには2012年から訪問している。チッタゴン丘陵地帯の先住/少数民族の人びとが運営するNGOで日本語教師として活動したり、自分自身でNGOを運営したり、2017年からは修士論文のための現地調査を実施したりと、調査研究やそれ以外でも長くこの国と関わりを持っている。博士論文のテーマは、バングラデシュ国内の先住/少数民族の教育に関するものであり、普段は農村でのフィールドワークを中心に行っていた。しかし、現在は新型コロナの影響もあり調査を中断し、ダッカで様子を見ながら生活を送っている。

以下では、バングラデシュに新型コロナの影響が出始めた3月から現在の7月までを自分自身の経験を基に振り返りつつ、バングラデシュとCOVID-19についてまとめる。

2.感染拡大前夜
2020年7月20日現在、バングラデシュにおける新型コロナは猛威を振るっており、感染者総数207,453人、回復者113,556人、死者2,668人と、世界で16番目に感染者数の多い国家となっている。

日本が新型コロナの話題で持ちきりだった2月頃は、バングラデシュ国内でもこのウイルスに関するニュースが少しずつ飛び交うようになっていた。しかし、住民も私もそれほどの危機感はなかった。唯一の変化は、外をあるくと、通行人から「チャイニーズ」「コロナ」と、揶揄されることが増えたことであった。中国人、日本人、韓国人を見る目が明らかに厳しくなってきていることを日に日に感じるようになっていたものの、その頃はまだ感染者も国内で出ておらず、通行人からの揶揄にも明るく対応することができていた。2月はまだ入国制限もなかったため、日本から友人がバングラデシュを訪れることもできており、何人かの来客を迎えながら、普段通りの生活を送ることができていた。加えて、日本の方が大変な状況であったので、バングラデシュが今のような深刻な事態をむかえるとは少しも予想していなかった。

国内で最初の新型コロナウイルスの感染者が報告されたのは、3月8日の事であった。イタリアから帰国したバングラデシュ人が3名PCR検査で陽性となり、その日からは日々状況が変化していった。まず、外国人への入国制限が厳しくなりはじめ、在バングラデシュ日本人の間でも毎日のように情報交換が行われるようになった。3月中旬ごろからは、アライバルビザの発給停止を皮切りに、72時間以内に取得したCOVID-19陰性証明書の提出が義務づけられるようになり、国境をまたぐ移動が大きく制限されるようになった。そして、最終的に3月21日から、バングラデシュの空港は原則国際便の乗り入れを禁止した。例外的に在バングラデシュ中国人が中国へ、在中国バングラデシュ人がバングラデシュへ帰国する為の中国便のみが、平常時よりは便数を減らして運航していた。その後しばらくして、その他の国のチャーター機も運航されるようになった。

3.強固なロックダウンの4月
3月25日、翌26日はバングラデシュ独立記念日を控える中、ロックダウンがバングラデシュ全土で開始された。ロックダウンにより、全ての公共交通機関並びに自家用車での往来が禁止、夜18時以降の外出が禁止、青果品市場や食料品を置くスーパー、薬局、病院以外の施設は、政府機関を含めて閉鎖された。もちろん、全ての教育機関、会社、工場も閉鎖し、経済活動が大きく制限された。私の生活の危機管理の意識が最も高かったのもこの時期であった。できるだけ外出しない、買い物はまとめ買いをする、近所に住んでいる友人とも会わない。当たり前ではあるが、自粛生活を徹底して過ごしていた。市場で野菜を買うこと、門番(バングラデシュの都市部にはアパートごとに門番がいる)との日常的なやりとり、ゴミ出しなど、全ての行動に気が張ったし、全神経を使って気を配っていた。家に引きこもり、静かに生活を送る毎日であった。それは、周りも同様であり、ダッカのアパートの前にある小さなスラムの住人、門番、市場の商人、リクシャ(三輪自転車、日本でいう人力車に自転車がついたもの)引きといった低所得層の人びとに至るまで、1枚約15~50BDT(約20~65円)するマスクの着用や、200mlで約150BDT(約170円)する消毒ジェルの使用を心掛けていたし、普段路上でたむろしている人びとの姿がみられなくなっていた。時々買い出しの為に外出すると、門番や近所の低所得者層の人びとから、マスクや消毒ジェルを分けてほしいというお願いをされ、私の手持ちを少しずつ分けてあげたりしていた。低所得者層の人びとに関しては、布マスクだけでなく、不織布の使い捨てマスクであっても何度も同じものを使用している様子が見受けられた。

チッタゴン丘陵地帯に設置された、村落への立ち入りを禁止する柵
(2020年3月25日Kratpon Mro撮影)

また、町中では、公共交通がストップした以外に、3月末より道の途中やモスクなどに簡易的な水道が設置されるようになったり、新型コロナ対策が絵で分かりやすく描かれたポスターも貼られるようになったりした。

道端に設置された簡易手洗い所と手洗い指導ポスター(2020年4月上旬田中志歩撮影)
モスク前にCOVID-19対策ポスターがかけられている様子(2020年3月27日田中志歩撮影)

緊迫した状況が少しずつ変わってきたのは、4月も後半に入る頃であった。感染を恐れていた低所得者層の人、日雇いの仕事をしている人、青果以外の露天商、物乞いの人びとを住宅街で目にしたり、近所のスラムの人達から助けを求める声が聞かれるようになったりした。最初は2週間で終わると思っていたロックダウンの度重なる延長に、いつこの状態が終了するのかわからない閉塞感が加わり、町中のいたるところで不満が噴出するようになり始めていた。物乞いの人びとは、道で物乞いをするのではお金が集まらないと判断し、住宅街を巡りアパートに向かって叫ぶようになった。

はじめは、何事かと思い少し怖いという気持ちがありながら部屋の中で過ごしていたが、アパートに向けて叫んでいる物乞いグループが知り合いである事が分かった。アパートの大家さんや、近所の人が物乞いに対して自然と喜捨している姿を見て、私も自分に無理のない範囲で喜捨をしようという気持ちになり、5月中旬以降から週に2回ほど10BDT(約13円)ずつ喜捨するようになった。

このような状況に対して、NGO等の活動は、政府に許可を得る必要があったものの、ロックダウン直後よりスタートしていた。BRAC (Bangladesh Rural Advancement Committee: バングラデシュ農村向上委員会)は、バングラデシュ全土のスラムマップを作成し、NGOらによる支援活動に活用を促していた。学生団体も多く活動し、ダッカ大学をはじめとする諸大学の学生らが貧困世帯への食料配布はもちろん、消毒液の製造と配布を低所得者層に向けて行っていた。また、政府による生活相談のための緊急電話番号「333」ヘルプラインは、COVID-19に関連した貧困層からの相談電話が増加した事を明らかにしている。COVID-19専用の遠隔医療相談を含む電話相談窓口を別に開設し、相談のあった家庭へ食料配付も行っている。(4月28日までにヘルプラインは46,673家族の食料援助を実施)。この他に、低所得者向けに食料を低価格で販売する等の動きがみられた。

そして私自身も、バングラデシュに暮らしたことのある友人らと共に、(本エッセイのはじめのほうで述べた)自分自身が運営するNGOにおいて、新型コロナ支援活動のための緊急支援基金を募ることを決意し、実行に移した。

4月上旬のダッカの様子(2020年4月上旬田中志歩撮影)

4.縫製工場が再開し始めた5月
強硬なロックダウンの続行が困難な状況が、町中のいたるところで見受けられるようになった。

ダッカ・チッタゴンの都市部貧困層の88%が、COVID-19の影響で無収入に陥った(Dhaka Tribune, https://www.dhakatribune.com/health/coronavirus/2020/05/19/survey-88-of-extreme-urban-poor-in-dhaka-chittagong-now-without-income-amid-covid-19, 2020年5月20日閲覧)。縫製業が盛んなバングラデシュにおいては、工場閉鎖による打撃が大きく、「コロナで死ぬか 飢えで死ぬのか」の状況に立たされた低賃金労働者が、工場に集まり、未払い分の賃金の支払いや工場再開を求めてデモを起こすようになった。ロックダウン開始後も(こっそりと) 稼働していた工場もあるが、近隣住民からの批判の声や県知事等からの禁止の命令を受けて、一時は大多数の工場が停止した。このような状況を鑑みて、バングラデシュの衣料品業界団体 the Bangladesh Garment Manufacturers and Exporters Association (BGMEA) が「経済活動継続のためには縫製工場の再稼働が必要である」との意見表明を4月24日にした。そのことによって、工場が再開するといううわさを聞いて、ロックダウン開始以前に地方へ戻った労働者らが、ダッカ・チッタゴンに殺到。中には、徒歩で帰ってきた人も見られた。政府もこれ以上縫製工場を停止することは困難だと考え、条件付きでの再開を認める。BGMEAは、4月22日にGuideline for factory opening by BGMEA(バングラデシュの衣料品業界団体による縫製工場再開のためのガイドライン)を作成し、再開にあたっての注意点を工場主に提示。4月末から5月上旬にかけて工場が次々に再稼働する運びとなった。近所のスラムで暮らす工場勤務をしている女性との会話のなかでは、「コロナは怖いけど、それ以上にもうお金もないし食べ物もない。工場を再開してくれないと困る」、「給料はきちんと支払われるのか、未払いが続くと生活ができない」とのコメントが出始めた。4月頃の、外出は感染の危険性があるから怖いといった意識とは異なり、日々の生活の苦しさをどうにかしたいという感情が強くなっていることが分かった。

工場が再稼動され始めてからは、それまで車の往来が少なくなっていた道路に車が増え始め、ロックダウンの終了が政府から告げられる前に市バスまでもが運行を再開する運びとなった。

移動規制の緩和における政府の建前上の理由は、経済再建の必要性であったが、実際には、今年の5月にラマダン(断食月)、とそれに続くイード(祝日)が重なった事も影響したと考えられる。モスクでの礼拝を求める声が高まったうえ、イード休暇での故郷への帰省や、恒例となっているイード前の服やカバン、靴などの買い物を楽しみにする様子もみられた。人々の間でこうした<気持ちの緩み>ともいえるものが出始めており、それを政府が抑え込みきれなくなったことが大きな要因となったのではないだろうか。移動規制の緩和後も礼拝や帰省といった人びとの移動を、警察や軍が検問し、県外からの流入者がいないか見張っているが、マスコミは、それでも多くの動きを止めることはできないとコメントをしていた。また、市井の人々の間で「感染するリスクだけでなく、感染させるリスクも恐れるべきであること」「無症状でも感染している場合がある」といった新型コロナに関する科学的根拠に基づいた知識が共有されていない点も、移動が減らない理由といえるであろう。

5.規制緩和の6・7月
5月からロックダウンは名ばかりで、街中の活気は6月になると戻っているかのように見えた。6月より感染者数に基づいて赤・黄・緑にゾーン分けし、規制の度合を変えたロックダウンが開始されているが、完全なものではなく、赤ゾーンでも自由な移動が可能な状況が2020年7月現在に至っても続いている。長距離移動の制限もなく、飛行機、電車、バスのすべてが運行している。しかし、長距離バスに関しては制限がかかっており、普段の2分の1の定員での運行が定められており、料金が通常の2倍となっている。市バスに関しては、バス会社ごとに対応は異なるが乗客がバスに乗り込む際に、乗務員が消毒液を乗客の手に散布している様子が見受けられる。

人びとの生活に関しては、銀行やショッピングモール、空港では入り口での検温や消毒が徹底されているものの、街中で見かける人びとのマスクの着用率などはどんどん減ってきていることが感じ取れる。レストランや商店等は基本的に営業再開が認められているが、営業時間を短縮している店舗が多い。

スーパーの前に設置された消毒液散布機(2020年6月3日田中志歩撮影)

6.教育機関
ここで私の研究テーマに関連して、COVID-19禍の教育機関にまつわる状況について触れておきたい。教育機関の閉鎖が始まったのは3月18日であり、全国的なロックダウンに先駆けて実施された。7月20日時点においては、8月6日までの閉鎖が発表されているが、政府は新型コロナの状況の改善が見られない場合は9月まで閉鎖を延長することも表明している。教育省が策定した「教育部門のCOVID-19対応計画 (COVID-19 Response and Recovery plan Education sector)」では、長期的な学校閉鎖が初等・中等教育における中途退学、児童婚、児童労働の増加につながる事が懸念され、その対応を早急に取ることが目指されている。3月末よりバングラデシュ政府は、テレビによる授業配信を実施しているが、長期的な学校の閉鎖による損失は計り知れない。日本で行われているような、オンラインによる遠隔授業も実施されているが、インターネット環境が決して良いとは言えないバングラデシュにおける課題は山積みである。インターネット配信の授業を受けるには、PCやスマートフォンを所有し、月々の通信料を支払うなどして、インターネット環境を整える必要があり、そういった経済的負担ができる世帯は中流以上の家庭の中でも限られてくるのが現状である。さらに、チッタゴン丘陵地帯をはじめとする田舎には、電気が普及していない地域も多い為、教育格差が益々広がることが懸念されている。

私が2014年度に1年間日本語教師として勤務したチッタゴン丘陵地帯・ランガマティ県にある寄宿舎学校MOANOGHARでも、インターネットによる授業がFacebookのグループページを用いて5月末より開始された。教員らは、「ネット環境・電気等問題は山積みであるが、教員一人一人ができる事を考え、今はこのような措置を取っている。チッタゴン丘陵地帯は特に、インフラが整備されていない地域であるので、早い学校の再開を希望している」と、語ってくれた。また、授業の再開はしていないが、子どもは友人に会いたいがため、学校の校庭に集まりサッカーやクリケットをしているようで、子どもたちの行動は自由になっている事が分かる。

おわりに
私が、バングラデシュに残ることを決めたのは、無理な帰国によって移動時等に感染するリスクがある事、慣れ親しんだ国である事(約9年関わりがあり、約3年暮らした経験があった)、言語が日常生活に不自由しない程度にできる事、頼ることのできる現地人/日本人の友人・知人が当地に多かった事に加えて、日本に帰国した際に帰宅先が田舎である為、海外からの帰国者である自分が田舎の人びとに不安な気持ちを抱かせてしまい、自分自身も、大きなストレスを感じるだろうと考えたからである。また、状況に応じた決断を下すことができたのは、様々な事情を理解し常に見守ってくださっている、関係するすべての皆様のおかげであることをここに感謝の気持ちと共に記したい。

また、文中で述べたNGO支援活動においては、72名の方から合計531,333円のご寄付をいただいた。この寄付金により合計190世帯と、2つの女性緊急避難シェルター、1つの学校への支援を実施することができた。全世界がCOVID-19の影響を受けている中にもかかわらず、多くの方がバングラデシュの人々へ手を差し伸べてくれたことにも深く感謝している。

バングラデシュの新型コロナは、一時期1日の感染者数が3,000人後半~4,000人を記録していた6月中旬~7月上旬の頃と比較すると、7月中旬以降は1日の感染者数が3,000人を切る日も少しずつ出ており、徐々に感染者数が減っているようにも見える。ただしこれについては、7月よりPCR検査を政府が有料化したことにより、感染者が減少しているように見えているだけではないかという見解もある。感染拡大に加え、海外出稼ぎ労働者への対応、ロヒンギャ難民キャンプでの感染対策、コロナ禍における災害時の対応等課題は多く複雑である。感染への対策を十分にとりつつ、当地に残っている日本人の方々や、現地の友人らと共にこの国での生活を続けてゆきたい。そして、その経験に基づいて、バングラデシュと新型コロナのこれからを、今後も記録していきたい。

6月30日のダッカの様子(2020年6月30日田中志歩撮影)
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