ロックダウン下のフィリピンからの脱出―パンデミック拡大初期の記録

2020年7月13日

床呂 郁哉(AA研、文化人類学)

はじめに―パンデミック拡大初期の東南アジア訪問記
筆者は主に東南アジアを対象として研究を行ってきた文化人類学者である。筆者は毎年、2月から3月のいわゆる年度末の時期を含めて頻繁に東南アジアの各地、とくにフィリピンやマレーシア、インドネシアなど島嶼部と日本を往復しながら調査研究や国際シンポジウム等の開催などの学術交流活動を実施してきた。しかし今年(2020年)の2-3月は、例年とは極端に異なるものとなってしまった。周知の通りこの時期は、ちょうど新型コロナ感染症(COVID-19)が中国以外のアジア各国を含む世界各地で急拡大し、いわゆるパンデミックとなった時期と重なってしまったからだ。東南アジア訪問中の筆者も、否応なく今回の状況に巻き込まれ、現地と日本のあいだで右往左往しながら過ごすこととなった。

本稿では、今回のパンデミック拡大の初期段階における東南アジア(特にフィリピン)における現地の状況などについて、当時現地を訪問していた筆者の行動や私見などを交えて記しておきたい。

本稿を執筆している現時点(2020年4月)では、新型コロナ感染症をめぐる状況が今後どのように推移していくのかを見通すことは極めて難しく、現時点でまとまった知見や見解などを述べることはまだまだ時期尚早なのかもしれない。

しかしながら、パンデミック拡大の比較的早期の段階での現地の様子であるとか、そこで文化人類学を専門とする研究者がどう行動し、そこで何を感じ、考えたのか、などを、たとえ雑駁であっても、まだ記憶が鮮明なうちに書き留めておくことは、後世への記録という点で必ずしも無意味ではないものだと信じ、ここに書き記しておきたい。

ジャカルタにて―中止になった国際シンポジウム
さて、文化人類学を専門とする筆者は、今年の2月から3月にかけて現地調査や国際シンポジウムのオーガナイズのために何度か東南アジアのインドネシアとフィリピンへの海外出張を実施した。この時期は結果的に、奇しくも新型コロナウイルス感染症が現地で急拡大していった時期とちょうど重なってしまった。そのため、インドネシアのジャカルタでの開催が企画され、筆者も関係者の一人として参加を予定していた筈の国際シンポジウム(タイトルは“Performing the Self and Playing with the Otherness: Clothing and Costuming under Transcultural conditions”)も開催の数日前というタイミングで中止となってしまった。また、その直後に移動した先のフィリピンでは、現地調査の最中にいわゆるロックダウン(都市封鎖)の開始に遭遇し、調査を途中で切り上げて早期に帰国することを余儀なくされた。

このうちジャカルタでの上記のシンポジウムは、もともとインドネシア科学院(LIPI)と、AA研コタキナバル・リエゾンオフィス(KKLO)、そして科研・新学術領域「トランスカルチャー状況下における顔・身体学の構築」プロジェクト等との共催で、顔・身体表現に関する学際的シンポジウムの企画として、昨年からAA研の吉田ゆか子准教授らを中心に2020年3月5日実施の予定で開催準備が進められていた企画であった。

筆者も関係者の一人として3月1日には同シンポの準備のため、マレーシアを経由してインドネシア入りしていた。インドネシアでは、それまで域内では珍しく新型コロナの感染者が確認されていなかったのだが、筆者がインドネシアに入国した翌日の3月2日になって現地で初感染者が出てしまい、警戒感が一気に高まった時期であった。筆者が入国した3月1日時点のジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港でも、以前にはなかった入国時の提出書類に基づく検疫審査や、体温検査などが全ての入国者に対して実施されていた。

そして筆者が入国した翌日の3月2日には、共催者でありカウンターパートであるLIPIから正式に中止の打診があり、開催まで数日というまさにぎりぎりのタイミングであったが、関係者で協議した結果、参加者の安全性を重視して中止するという決断に至った次第である。

ちなみにインドネシアでの初の国内感染者は、日本人経由で感染したものと現地政府から発表されていた。その結果として、現地ではインドネシア在留邦人への感情が悪化し、邦人への接客がレストランで拒否されたり、タクシーの乗車拒否も起きた、などと日本語メディアで後日、報道されている。ただし筆者が滞在した期間中においては、筆者が会った研究者らはもちろんのこと、街で偶然出会ったタクシーの運転手から街中の店の販売員、レストランのウェイターを含め、筆者が接した範囲の人々は、誰もが礼儀正しく親切であり、対日感情の悪化を感じさせるような片鱗は一切なかったことは明記しておきたい。

マスク欠品中のジャカルタの薬局(2020年3月吉田ゆか子撮影)

フィリピンにて―ロックダウンで激変したマニラ
さて、国際シンポジウムが中止になり、インドネシアを後にした筆者は、かねてから予定していた旅程通り、フィールドワークを実施するために3月前半にそのままフィリピンへと移動した。その3月前半の当時は、フィリピンでは新型コロナの感染者の確認事例は通算で約50人前後程度であり、同時期の日本などに比べても相対的にかなり少なかったと言える。こうしたこともあって、その時点では特に日比間での渡航制限等は実施されていなかった(その後、感染拡大に伴う両国政府の規制強化により4月中旬現在では日比間の一般人の渡航は事実上、不可能となっている)。

さて、フィリピンに入国した筆者は、自分の研究テーマであるフィリピン国内の少数派ムスリム(イスラーム教徒)の社会や文化、その身体表現等に関して首都圏での人類学的調査に着手した。その時点では、街ではマスクや消毒液などは入手しづらくなってはいたものの、現地では概ね過去の滞在時と大きく変わった様子はなかった。にショッピングモールやホテルなど主要な建物の入り口では非接触式の体温計で入場者の検温をするなど細かい変化はあったものの、首都圏や周辺のショッピングモールや飲食店も基本的には通常営業を実施していた。そしてマニラ名物(?)の酷い交通渋滞や排気ガスによるスモッグなども相変わらずだった。

しかし、この当時、既に巷では、フィリピン政府が遠くないうちにロックダウン(都市封鎖)を実施するという噂がSNSなどで流通しており、筆者の携帯電話にも真偽不明のさまざまな噂が流れてきた。はたして数日後には、ロックダウンの噂は現実のものだったことが判明した。

ドゥテルテ大統領が率いるフィリピン政府は、3月15日の深夜12時から首都マニラをロックダウン(現地での正式名称は「コミュニティ検疫」Community Quarantine)すると発表した。3月16日以降には、ロックダウン措置はルソン島全域、そしてセブなど首都圏以外の各地にも拡大し、また外出規制の内容も日ごとに厳しくなっていった。この都市封鎖は当初、4月14日までとされていたが、その後、少なくとも4月末日、さらに(一部地域では段階的な緩和措置や修正を伴いながら)5月末まで延長することがアナウンスされた。

このフィリピンにおけるロックダウンは、日本において4月現在実施されている緊急事態宣言による「自粛」ベースの措置に比較して遥かに厳しい措置である。まずタクシーやバス、そして庶民の足であるジプニーと呼ばれる乗り合い自動車を含め、あらゆる公共交通機関は運行禁止とされた。またマニラと域外を結ぶ国内航空便や船便も一斉に運航が停止された。

さらにロックダウン期間中は、スーパーやコンビニ、薬局などの一部の例外を除く店舗の営業は原則として禁止された。企業のオフィスや工場なども一部の業種等を除いて原則、職場への通勤が禁止されている。なお買い物のための必要最小限の外出だけは許可されるが、その場合もバランガイ(地方行政の最小単位)が発行する外出許可書を携帯し、一家のうち外出できるのは1名だけ、外出できる曜日や時間帯も限定、という厳しい規制も課されるようになった。この外出制限令への違反者を警察が逮捕・拘留する例も各地で実際に報告されている。

筆者は以前、ムスリム少数派武装勢力への対抗措置として軍事戒厳令下に置かれたフィリピン南部ミンダナオ島を訪問した経験もあるが、今回のロックダウンに伴う移動制限は、かつての戒厳令を上回る厳しい措置だと言って決して過言ではない。例えば以前の戒厳令下では、ミンダナオ島で各地に検問所はあるものの、バスやジプニーなどの運行は認められていた。しかし今回のロックダウンでは先に述べたように公共交通機関の運行が全面的に禁止されているのだ。

この結果、マニラや周辺地域などでは、文字通りほぼ一夜にして、街の光景は激変することを筆者は実際に目の当たりにした。全面的なロックダウンが導入された翌朝、急遽、航空機の帰国便を早める予約変更の手続きのためにマニラ(マカティ市)の航空会社のオフィスに徒歩で向かった。当時はロックダウンによる通信の途絶などで電話やネットでは埒が空かず、実際にオフィスに行かないと話が進まない状況だったが、もはやタクシーもバスも公共交通は一切が停止しているために、宿からオフィスまでは歩く以外の選択肢は無くなってしまった。仕方なく筆者も、宿泊先から航空会社のオフィスまで歩いていくことにした。その途上、普段は渋滞で悪名高いアヤラ通りを見れば、走る車の数は片手で数えるほどとなり、多くの群衆でごった返していた筈の歩道からもまったく人影が消えていた。

そうした無人の街路の一角で白装束の男が一人で何か作業をしていたのが印象的だった。近寄ってみると彼は、白い防護服と防毒マスクで全身を覆い、背中のタンクから消毒液を街路に散布しているところだった。ゴーストタウン化した都市で黙々と消毒作業に従事するその姿がどこか現実離れしていて、まるでSF映画の世界に自分が迷い込んでしまったかのような奇妙な感覚を覚えた。

封鎖された都市からの脱出―日本帰国までの顛末
その後、筆者はロックダウン中のフィリピンを出国するのだが、その過程も波乱含みだった。まず宿泊していた場所であるマニラ首都圏のマカティ市から空港まで向かう必要があるのに、ロックダウンでバスやタクシーを含む一切の公共交通機関の運行が禁止されてしまったため、空港まで移動する手段が存在しない、という困った状況に直面した。流石に空港までは重い荷物を持って徒歩で移動するには距離が遠すぎた。

そこで筆者は、以前に利用したことのある知人のタクシー運転手のうち、いわゆる商用のタクシー車両以外に自家用車を所有している者を探し出して、出発日の朝に早めに宿に来てもらい、空港に送ってもらう段取りをなんとか手配をすることができた。

これでようやく一安心だと安堵していたのだが、蓋を開けてみると出発当日の朝の約束の時間になっても、運転手の車がいっこうに迎えに来ないのだった。こちらから運転手に電話しても繋がらないまま時間だけが過ぎていった。焦りながら待っていると、しばらくして運転手から携帯に連絡が入った。聞けば、運転手が住む郊外の居住地域から、筆者の宿のあるマカティ市まで来る途中で、ロックダウンに伴う警察の検問にひっかかってしまったという話だった。迂回路も探したが、郊外からマカティなどマニラ中心部までの道路にはどこも警察や軍の検問がありどうしても筆者の宿に迎えに来れない、ということであった。

このままだと航空機の出発時刻には間に合わず、かといってタクシーなどの公共交通もロックダウンによって禁止されている。刻一刻と航空機の出発時刻が迫り、このまま帰国できなくなる可能性も頭をよぎりはじめたとき、「ダメでもともと」とばかりに宿にいた顔見知りのスタッフに相談することとした。

結果的には、そのスタッフの機転で筆者は助けられた。事情を理解したスタッフは、いわゆるホテル・タクシーなどはロックダウン措置によって使用できないので、スタッフの知人の所有する自家用車を使って空港まで送ってくれるとのことだった。こうして筆者はその車で空港まで向かうこととした。ただし途中で検問に止められたら出国できなくなるリスクも覚悟していた。

その空港までの道中、車窓からふと外を見上げて驚いたことに、普段はスモッグで曇りがちなことが多いマニラの空が、その日は大気も澄み渡り、嘘のように見事な群青色の青空が大きく広がっていた。ロックダウンで自動車の渋滞が解消されたことにより、大気汚染もあっという間に消え去り、どこまでも澄んだ青空が久しぶりに出現していたのだった。パンデミックとそれによるロックダウンで多くの人々が苦しい生活を余儀なくされているなかで、マニラの空は久しぶりに美しい姿を取り戻していることが何とも皮肉な事態だった。

さて、運が良いことに、宿から空港に到着するまでの間に警察や軍による検問も一切なく、筆者は拍子抜けするほどあっけなく空港まで到着した。空港ではロックダウン中のフィリピンを脱出して母国へ帰国しようと急ぐ外国人たちが殺到していたものの、航空会社カウンターでのチェックインや出国審査では幸いにも大きな問題もなく、筆者はなんとか日本へ帰国することができた。

長引く封鎖と困窮する庶民
さて、このように非常に厳しいロックダウンを実施したフィリピンだが、ロックダウン開始から既に1か月を過ぎた4月17日現在でも、新型コロナの感染者や死者は残念ながらじわじわと増加している。筆者はロックダウンがまだ始まった比較的早期にフィリピンを出国したので、その後の事情は現地の知人とのSNSやメールを通じた知らせや、メディアでの情報に基づくのだが、それによるとフィリピンでは医療関係者にも複数の死者が出るなど、いわゆる医療崩壊に類するような状況も発生している。

また筆者に身近なところでは、筆者がフィリピン滞在時によくお世話になっている国立フィリピン大学のアジア研究センターでも、残念ながら死者が出ることとなってしまった。現地で有名な中国研究者であるアイリーン・バビエラ教授が新型コロナ感染症により亡くなったのだ。このニュースは筆者を含め世界のフィリピン研究者コミュニティに大きな衝撃を与えた。

こうした病死など感染症の直接の影響だけではなく、ロックダウンによるフィリピンの社会や経済への間接的な負の影響も甚大なものがある。すでにロックダウンの影響で大量の失業者がフィリピン国内で生じている。また自家用車などを保有しなかったり、そもそも十分なお金もないので、ロックダウン中に市場や食料店に出かけて普通に食べ物を買うことが難しい庶民も大勢でてきている。

こうしてロックダウンで困窮した人々には、政府が資金や食料を供出し、最終的には各地の地方自治体が食料の配給であるとか、一時支援金の支給の実務を担う責任があるとされている。しかし実際には、フィリピン各地で食料や支援金の配給がない例だとか、仮に配給されたとしても食料の量、ないし支援金の額が十分でない、などの声が上がっている。もしロックダウンが今後さらに長期に渡って延長されるようなことになれば、各地で困窮者がさらに増加し、最悪の場合には餓死者も出てくるのではないか、と危惧されている。

マレーシアの状況
さて、厳しいロックダウン措置を敷いているのはフィリピンの隣国マレーシアも同様である。筆者は、パンデミックが本格化した後、マレーシアの大学に所属する長年の知己の研究者らとメールなどで情報交換を続けている。それによると、マレーシアでも新型コロナ感染症の拡大と、それに対する防止策である事実上の都市封鎖で大学や関係する研究者に多大な影響が出ているのが現状である。

具体的に言えば、マレーシアではMovement Control Orders(MCO)と称される大規模な通行禁止・移動制限を含む事実上のロックダウン命令が実施された(その後、5月に入り地域によっては段階的に緩和)。大学も通常の授業実施はほぼ不可能となり、またマレーシアで今年予定されていた大規模な国際会議なども矢継ぎ早に中止を決めた。筆者も毎年、国際シンポジウムなどの学術交流の企画をマレーシアの大学等との共催で実施してきたが、今年度は具体的な開催日程はおろか、そもそも今年度中に開催可能かどうかさえ定かではない。マレーシア・サバ大学(UMS)に勤務する筆者の知人の教授も、外出禁止令によって大学の職場の同僚はもちろん、マレーシアの別の場所に住む自分の配偶者や子供とさえ会うことができないという不安な状況を語ってくれた。

パンデミック状況と人文・社会科学
こうして筆者が関係する範囲だけでも研究活動に大きな影響を与えている新型コロナ感染症であるが、今回のパンデミックは文化人類学など人文系の分野の研究者にとっても、新たな状況下で研究を進めていくと上でのさまざまな課題を突き付けているように思われる。

例えば筆者は近年、いわゆるグローバル化やグローバル化に伴う文化の越境や混交・変容など、トランスカルチャー状況下での文化現象に関係する研究を展開してきたが、こうしたテーマにとっても今回のパンデミックは少なからぬ課題を突き付けているように思われる。

そもそもグローバル化の過程においては、概して地域や国家、民族などのローカルな枠組みや境界を越えて人々や文化が流動し越境していく半面で、他方では、新たな境界の形成や(再)強化のトレンドも逆説的に同時進行するという点も指摘されてきた。この指摘を裏付けるかのように、今回のパンデミックはある意味で世界規模での交通や人の移動の産物だと言えるが、逆にパンデミックを契機として、これまでのグローバル化の進展をすべて逆回転させるかのように、再び国境を閉じ各種の境界を(再)強化する動きも顕在化しつつある。

もちろん、これ以上のパンデミック的な状況の悪化を阻止するという観点から、海外渡航禁止をはじめとする各種の移動制限は、不便ではあるものの必要で不可欠な措置であることは明らかである。しかしながら他方では、感染症の拡大への恐怖のあまり外国人や海外帰国者等への忌避感が嵩じて、いわゆるレイシズムや排外主義などに結び付いたような動きも一部で顕在化していることには懸念も感じざるを得ない。

例えば新型コロナ感染症の流行の発端だとされた中国の出身者をはじめとするアジア系住民への差別やヘイトクライムなどが欧米など各地で報道されている。中世のペスト大流行の際にユダヤ人が虐殺されたことをはじめ、未知の疫病の蔓延の際に特定の集団がスケープゴートとされて標的になる例は歴史上で先例に事欠かないが、今回も例外ではなかったようだ。

今回の新型コロナ感染症のパンデミックに際して、感染拡大への恐怖心がレイシズムや排外主義的反応などを促進する傾向に警鐘を鳴らすためにも、各地におけるパンデミックへの社会・文化的なインパクトや反応を冷静に分析し、学術的研究に基づいたメッセージを発信していくことは、文化人類学をはじめ人文・社会系の分野における重要な課題の一つになりうるだろう。

社会的距離の変容
この他にも、今回のパンデミックに際して人類学や人文系の分野が応答すべきテーマや現象は少なくない。以下は現時点で思いつくほんの一例だが、例えば今回のパンデミック状況を通じて、顔や身体の表現であるとか、あるいは身体間の距離の取り方(いわゆるソーシャル・ディスタンス=社会的距離)をめぐる各地域ごとの状況とその変化なども今後の研究課題の一つになりうるように思われる。というのは、顔や身体をめぐる表現やソーシャル・ディスタンスをめぐる状況が、今回のパンデミックを受けて世界各地で少なからず変化しつつあるからだ。

例えば顔の隠蔽に関しては、今回のパンデミックが起きる前までは、欧米では顔を隠蔽する場合はサングラスを使用することが多く、日本人のようにマスクを使用して顔を隠すことはあまりない、といった差異が指摘されてきた。概して日本などに比して欧米はじめ海外ではマスク着用の習慣が欠如しているという指摘が一般的であった。

しかしながら、こうした状況は、新型コロナ感染症のパンデミックを通じて変化していくような兆しもある。例えばフィリピンを例に取ると、これまでは日本に比べてマスクを着ける習慣はあまり一般的とは言い難かったのは事実である。しかし今年に入ると、ひとつは首都圏ではタール火山の噴火を最初のきっかけに、そして更に今回の新型コロナ感染症の流行を契機としてマスク着用者は目に見えて急増しており、また自治体によってはアメリカと同様にマスク着用を義務化した場所も出てきている。

社会的距離(social distancing)に関しても、東南アジア各地ではこれまで、概して人と人の距離が近いような国や地域が少なくなかった。フィリピンもその典型であり、ジプニーなど公共の乗り物ではラッシュ時には狭い車内でもどんどん客が乗り込んで僅かな隙間をも見つけて席に座るといった行動が普通であった。また家族や友人など親しい間でのボディタッチなども日本などに比べて概して頻繁であったと言える。

しかし、こうした傾向も新型コロナ感染症の蔓延により変化の兆しが伺える。既に3月の時点で日本に先駆けてフィリピンではスーパーや建物内のエレベータでも床にテープが貼られるような場所が増えており、またコンビニではレジと売り場をビニールで区切るなどの措置が導入されていた。店では売り子と客の間を紐や棒などで挟んで、なるべく距離を取るようにするなどの措置も導入されるようになった。

こうした変化が、今回のパンデミックを背景とするあくまで一時的な現象なのか、それとも「アフター・コロナ(ないし「ポスト・コロナ」)」にも長期的に影響を及ぼすような変化であるのか、現時点ではまだ不明である。また、身体表現や社会的距離の問題に限らず、概して新型コロナ感染症が東南アジアなど各地の社会や文化、習慣などにいかなる中・長期的なインパクトを及ぼすのか、その含意はどのようなものなのか、などを含め検討すべき点は他にも少なくないだろう。

更には、これまでの文化人類学で一般的な手法であった対面的なフィールドワークが困難になった状況下で、いかにして調査研究を継続していくのか、などの点をはじめ、今回のパンデミック状況下で人類学や関連分野の文脈で検討すべき喫緊の課題は他にも山積している。

感染拡大から現時点までは、先述のジャカルタでの国際シンポジウムの件をはじめイベントの急な中止など、刻々と変わる状況に振り回され続けた数か月であった。今後も新型コロナ感染症をめぐる状況の推移には予断を許さず、この状況下での研究の円滑な実施には、少なからぬ困難が付き纏うであろうことも残念ながら否定しがたい。しかし、そうした暗鬱な状況に直面して思考停止してしまうのではなく、むしろこうした状況下だからこそ、できること、すべきことを見出しながら、さまざまな研究上の課題への応答を今後も持続していきたい。

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