レバノンの場合:政治・経済危機に動揺する国で

2020年7月30日

篠田 知暁(AA研、歴史学)

危機の始まり
レバノンでいつ頃から新型コロナウイルス感染症の問題が騒がれだしたのか、実のところそれほどはっきりとした記憶がない。一つには、年明けから締め切りのある論文の執筆で忙しかったこともある。しかし何より、レバノン国内の政情が慌ただしく、そちらを追うので精いっぱいだったというのが大きいと思う。武漢のウイルスの問題が日本で話題になり始めたのは、レバノンの新首相ハサン・ディアーブの組閣をめぐり各地で連日激しいデモが行われていたのと大体同じ時期であったし、その後も新内閣の経済政策をめぐってデモ隊と警察や軍がたびたび睨みあっていた。そして、勤務先であるJaCMES(AA研の海外拠点である中東研究日本センター)の事務所があるベイルートのダウンタウンはその最前線だったのである。そういうわけで、ふと気がつくと、街中を歩いていて子供から囃しかけられる言葉が、いつのまにか「コロナ!コロナ!」になっていたという塩梅である。とはいえ、レバノンで最初にウイルスの感染確定者が出た2020年2月22日の頃には、この問題は現地のメディアでも盛んに取り上げられるようになっていた。レバノンでは、ウイルスはイラン経由で侵入したと考えられている。このことを受けて、野党で反シリア・イランの立場にあるマロン派右派の政治家サミール・ジャアジャアが、イランからの入国の禁止を要求したため、ウイルス対策は政治問題化してしまった。そしてそのあおりを受けて、3月頭には、当時比較的多くの感染者が出ていた日本は旅客輸送停止の対象国リストに追加され、日本からの出張は次々とキャンセルされていった。また、今年の前半に国内外で予定されていた学会・研究会の中止やオンライン化の連絡も、次第に入るようになった。さらに、学校やバー・レストランも保健相の指示で閉鎖されていった。実のところ、筆者はこの頃になってようやく問題が深刻であることを実感したのである。

レバノンの感染症対策が本格化したのは、3月15日以降である。この日大統領のミシェル・アウンが「公衆衛生上の非常事態」を宣言し、また政府は緊急閣議を開催して2週間の「総動員」令を発動した。これは公共施設などの閉鎖や自宅待機、そして陸海空の国境閉鎖といった措置で、空港は18日から閉鎖されることになるという情報が大使館から通知された。つまり、帰国したければ2、3日のうちにチケットを購入して出て行くように、ということだ。この頃にはレバノンでも連日のように感染者が確認され、何よりイタリアとスペインを中心にヨーロッパで急速に感染が拡大していたから、さほど驚きはなかった。残るか出ていくかという点では、残るという選択で特に迷わなかったと記憶している。急な帰国で研究環境が悪化すること、この時点では日本のほうが深刻な状況に見えたことに加えて、2019年の春先に赴任してからこの方ずっと政治がマヒ状態にあるこの国で、新内閣がウイルス問題にどのように対処していくのか、もう少し見てみたいと考えたためである。なお、「総動員」令はその後繰り返し延長され、この原稿を書いている2020年7月半ばの時点では8月2日まで、若干緩和されながらも継続が予定されている。以下、「総動員」令によって生じた変化を列挙する。

「総動員」令発動後のベイルート
他の多くの国と同様に、「総動員」令によって不要不急の外出は避けるよう要請され、特に3月27日以降夜間は外出禁止とされた。スーパーなどの食料を売る店も、営業時間の短縮を求められていたようである。筆者が住んでいた東ベイルートのアシュラフィーエ地区では、昼間であれば誰何されることなく街中を歩き回ることが可能だった。ただし、都市各地を結ぶバスの営業は停止しており、流しのタクシーも捕まらなかったので、徒歩で移動しづらいときはUberを呼ぶことになった。もともとUberは、ベイルートでは流しのタクシーよりもきれいで安価なのでよく利用していたのだが、コロナ問題が発生してからは何度か嫌な思いをさせられた。というのも、運転手がこちらの顔を見るや、慌ててマスクを着けなおしながら「お前は中国人か」と問いただすような口調で聞いてくることがあったのである。「日本人だがそれがどうかしたか」と言って後部座席(コロナ問題発生後、運転手の隣の席は使用禁止になっていた)に座るのだが、そのあとも陰謀論や偏見を垂れ流したりすることもある。制止しても、自分が差別的な発言をしていることに気づく様子はない。外出規制で道は空いていたから、車内にいる時間はさほど長くはなかったはずだが、気が塞いだ。なお夜間については、買い物もできず外食もできないうえ、SNSでは軍が巡回しているという情報が流れていたため外出を控えた。そのため、どの程度厳しく取り締まりをしていたかはわからない。3月の終わりに一度、事務所で夜まで作業してから自宅まで歩いて帰ってみたことがあるが、都市清掃の人数人を除き誰とも出会わず、ひどく静まり返っていたのを覚えている。その一方で北部の都市では、政府の経済政策に反対する人々が夜間外出禁止を破って通りを集団で歩き警察と対立する様子が、テレビで繰り返し報道されていた。

このような制約はあったものの、日常生活に必要な物資の確保という点では、後述するように重大な留保はあるものの、レバノン滞在中特に苦労することはなかった。地方都市やベイルート内でも離れた地区の状況はよくわからないが、筆者の暮らしていた地区では、生鮮食料品もトイレットペーパーや洗剤などの日用雑貨も、「総動員」令発動直後に若干品薄感はあったもののすぐに解消し、その後は安定して入手可能だった。多くのスーパーや商店ではソーシャルディスタンシングが導入され、レジの前に数メートルおきに床にテープが貼られて、一定の距離を保って並ぶように指示されていた。そのほか、すでに述べたように外食は禁止されていたが、パンやお菓子のテイクアウトは可能だったし、多くのレストランはZomatoなどの宅配サービスを利用して食事を楽しむことができた。また、医薬品やマスクも薬局で問題なく購入可能だった。ただし、レバノンでは2019年後半から通貨の下落が続いており、物資の多くを輸入に頼るこの国の物価は急速に上昇していた。特に3月7日に債務不履行となってからレートは急激に悪化し、赴任時には1ドル約1500LBP(レバノンポンド)だったのが、5月頭に帰国するころには3200LBPとなっていた。そのため、ドルを日本から持ち込んで暮らしている筆者のような外国人と異なり、レバノン人の一般市民の多くにとっては、いくら物資が並んでいても気軽に購入できない状況になっていたと思われる。直接確認はできなかったが、貧困層の多い地域では物価高騰の影響はより深刻だったはずである。

このように経済危機のさなかでコロナ問題に直面したレバノンでは、保健省によるウイルス感染者の検査・隔離体制の確立に比べて、市民への経済的支援が貧弱であるように見えた。ディアーブ内閣の保健大臣のハマド・ハサンは、シーア派政党のヒズブッラーがその地位に指名した人物であり、彼のコロナ対策に党の医者、看護師や病院を動員して支援していると報道されていた。それがどの程度うまく機能したのか、筆者にははっきりとはわからないものの、3月の後半をピークに4月に入ると明確に鎮静化の傾向を見せた。それに対して経済的支援については、少ない予算ながら貧困家庭への食糧の配給といった対策は取られていたものの、一般のメディアでもSNS上でも、不満が多々見られた。特に後者では、伝統的な政治エリートが支援の割り当てで支持者に便宜を図ることにより、かえってその影響力が強化されるのではないか、といった懸念が表明されており、興味深かった。

また、この時期に印象的だった出来事として、コロナ対策とは直接関係ないのだが、政府によるダウンタウンの殉教者広場とその隣の駐車場のテント村撤去がある。これは昨年10月に始まった「革命」における市民団体の抗議運動の拠点の一つとして、たびたび反対勢力による破壊に遭いながらも建て直され、時には集会や議論の場として、また時にはフリーマーケットやアート・フェスティバルの会場として利用されてきた(写真1、2)。しかし、「総動員」令発動後は人影もめっきり少なくなり、抗議運動の低迷を象徴している感さえあった。それが3月の終わりになって、「革命の拳」などいくつかのオブジェを除き、警察によってすべて撤去されてしまったのである。この決定がどのように下されたのかわからないが、これからコロナ対策で市民の協力が必要となっていくときに、コロナ問題を利用するような形で、このような強硬策を取る必要はなかったのではないか。オブジェが寂しくたつ広場やその隣の駐車場を呆然と歩きながら、そう感じた(写真3)。

写真1 2019年12月1日、駐車場のテントで行われたフリーマーケット
写真2 2020年2月2日、殉教者広場のアート・フェスティバル
写真3 2020年3月30日、殉教者広場に残されたオブジェ

帰国、そしてその後
その後、すでに述べた通り「総動員」令は繰り返し延長されていき、4月6日から開始した在外レバノン人の帰還事業によるものを除き、国外との行き来は不可能な状況が続いた。ところが4月16日になって大使館から、カタール航空の臨時便で帰国できる可能性があるとの連絡があった。ビザの期限が近付いていること、どうやら当分「総動員」令が解除される見込みは薄いことなどから、帰国の希望を伝えた。その後しばらく実際の帰国の便は確定しなかったものの、5月初頭には帰国の便が出ることになり、4月末にアシュラフィーエの自宅を引き払って西ベイルートのハムラー地区のホテルに移った。数か月ぶりに訪れたこの地区では多くの店舗が休業、もしくは廃業しており、ひどく物寂しい雰囲気になっていた。その一方で、時間に厳しい制限はあったものの、ちょうどこの時期に飲食店の営業が可能になったため、暗い街並みの中で一軒だけ開いていたバーに入り、最後の一日だけだが久しぶりに見知らぬ酔客同士で雑談を交わすことができた。残念ながら筆者の帰国後、経済状況、特に通貨危機は深刻化するばかりで、一時は1ドル=10000LBPにまで達したと伝えられている。また、4月の後半には一桁前半に抑えられていた1日の新規感染者数が、7月の半ばに入ってから平均70人と急増していることから、今後経済活動に一層制約がかかることが予想される。なかなか明るい見通しは得られないが、何とか政治と経済の安定を取り戻してほしいと願うばかりである。

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