新型コロナウイルス感染拡大のなかでフィールドワークを続ける:パキスタンにおける農村調査—その1—

2020年11月16日

賀川 恵理香(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科/日本学術振興会特別研究員DC1、南アジア地域研究)

2020年9月現在、私は博士論文執筆に向けての調査のため、パキスタン・パンジャーブ州の農村に滞在している。私の研究対象は、現地の性別規範である「パルダ」を実践する女性たちである。パルダとは、インド、バングラデシュ、パキスタンを中心とした南アジア地域に広く存在する男女分離の制度であり、男女が生活空間を分離することによって、または女性が衣類で身体を覆うことによって実践される。調査村では、空き家の一室を借りてパルダに関するインタビュー調査を進めている。

パキスタンには2019年9月から滞在している。同年12月に日本に一時帰国をして、翌年1月にパキスタンへ戻った。その後、6月に一時帰国を予定していたが、計画を変更して現在までパキスタンに滞在し続けている。現在のパキスタンでは、新型コロナウイルスはすっかり終息モードである(「パキスタン、なぜかコロナの大流行回避 専門家ら困惑 9月4日AFP通信」という日本語の記事も出ている)。一時期は1日の感染者数が6000人を超える日が続いていたが、現在は500人程度で安定しており、9月15日からは3月からずっと休校していた学校も再開された(一部の学年のみ)。

詳しくは後述するが、ウイルス感染が拡大するなかで、私は比較的その影響を受けることなく、調査村において滞在することができている。以下では、パキスタンにおいて新型コロナウイルスの感染が拡大し、そして感染状況が変化していくなかで、外国人学生としての私が現地でどのような経験をしてきたのかを記述したい。

図 1 パキスタン周辺国地図 筆者作成

感染拡大以前のパキスタン
2019年12月18日、日本に一時帰国をして、翌年1月22日にパキスタンへ戻った。この時は、パキスタン国内での旅行を予定していた母も同行した。日本でも感染者が出始めた時期であったので、私も母も飛行機移動の際はマスクを着用していた。ラーホールの空港に着くと、パスポートチェックの前に非接触型の体温計で体温を測られる。どうやらこの時テレビ・クルーが待ち構えていたらしく、体温測定をされる私と母の様子がパキスタンのニュース番組で流れたそうだ。

図 2 テレビに映った筆者と母 2020年1月28日のラーホール・ニュースのスクリーンショット
(スクリーンショットの撮影日は2020年10月8日)

1月末の時点では、パキスタン国内でマスクをしている人はほとんどおらず、母を連れてラーホール、ムルターン、サヒーワール、そして調査村を回ったときも、道行く人から何か言われることはなかった。母は意識的にマスクを着用していたが、私の場合はマスクに関して特に気を配った覚えはない。母を日本へ送り出してすぐの頃、日本からの友人一家を案内しているときには、若干ではあるが、すれ違いざまに言葉を投げかけられた。普段の「チーン・チョーン(中国語の響きをまねた言葉で、東アジア系の顔立ちの人物をからかう時に用いられる)」という言葉ではなく、明らかに新型コロナウイルスの感染拡大を意識した発言であった。2月初旬のことである。

2月9日、私は一人で再び調査村に戻った。調査村は、パンジャーブ州の州都であるラーホールから北東160キロメートルの場所にある。高速道路を抜けた先が悪路のため、車で3時間、道が混んでいる場合は5、6時間ほどかかることもある。新型コロナウイルスについてはニュース番組で連日報じられていたものの、この時点ではパキスタンの感染者数は0であり、村の人々の関心は薄かった。それよりも、会う人会う人から村を訪れた私の母について尋ねられた。

図 3 調査地(J村)マップ 筆者作成

対岸の火事から現実へ
大きく状況が動いたのは、3月初旬のことであった。2月末にパキスタン国内で最初の感染者が確認され、その後パキスタンの各州にて次第に感染者が増加していったのである。ちょうどそのころ、私はJICA主催のフォーラムに出席するため、とある出張先から、さらに空路で2時間かけて、スィンド州の州都であるカラーチーへ行く予定があった。

3月5日(国内感染者数5件)、空港のあるラーホールへ向かうため、村の前の道を通るローカル・バスに乗りこんだ。バス停まで村の友人K(22歳未婚女性)の兄Oとその母Eに付き添ってもらって、チケットを購入した(1座席300ルピー、日本円で210円ほどのところ、荷物が多かったために2座席分購入した)。普段ラーホールへ向かう際には、カウンターパートの先生の車に乗せていただいていたが、今回は予定が合わなかったため、ローカル・バスを利用した。ローカル・バスを利用したのは今回が初めてであった。バスは村々を回って乗客を乗せていくため、ラーホールまで5時間ほどかかる。

道中、見た目で外国人であるということを悟られないように服装に気を遣った。目にはサングラスをかけて、身体がすっぽりとおさまる大きなショール(チャーダル)を頭から腰に掛けて纏った。さらにその布の端で鼻から下を覆って(ナカーブ)、顔が完全に隠れるようにした。そのおかげで、他の乗客の視線を集めることもなく、快適に過ごすことができた。普段から、近隣の町のバーザール(伝統的な市場)へ行くときにはこのような方法で身体を覆っているが、この時は特に新型コロナウイルスについて人々の関心が高まりつつある時期であったため、トラブルを避けたいという気持ちが強く働いていたように思う。

図 4 ローカル・バス車内の様子 2020年3月5日 筆者撮影

3月8日(国内感染者数7件)、ラーホールから出張先へ向かった。出張先での用務を終え、3月11日(国内感染者数20件)、出張先の空港からカラーチーに向けて飛行機に乗り込んだ。空港及び機内では、マスクをしている人もちらほら見かけられた。私はマスクこそ着用していたものの(日本から掃除用に持参したN95マスクが役に立った)、先述のバス移動の時のように特に服装に気を遣っていたわけではなかった。一応スカーフで髪の毛は覆っていたが(イスラームが支配的な地域では、宗教的な教義に基づいて女性が頭髪を隠すことが法的に定められている国もあるが、パキスタンには女性が頭髪を隠すことの法的義務はなく、スカーフで頭を覆っている人もいれば覆っていない人もいる)、サングラスは着用していなかったため、一目見て外国人だとわかる外見であった。

機内に入って、座席を確認して座ろうとしたとき、後ろの席の男性が携帯電話で話しているのが見えた(パキスタンにおいて、離陸前や着陸後の機内において携帯電話で通話する光景は珍しくない)。彼は私の方を見て、電話口の相手にウルドゥー語でこう話した。「どうしよう、前に中国人の女の子が座っている。もうアッラーに委ねるしかない。なんだかコロナの臭いがする気がする。」これを聞いて、私は思わず笑ってしまった。彼は私の国籍も知らなければ、私がウルドゥー語を解することも知らない。そして「コロナの臭い」という謎の存在まで創り出してしまったのである。この時はむしろ不愉快に思うよりも、やみくもにウイルスを恐れる彼を気の毒に思った。

空港ではマスクをしている人がちらほらと見られたものの、カラーチーの市内ではマスクをしている人はあまり多くなかった。JICAフォーラムの後、昼食会に参加させていただいていると、参加者の方に話しかけられた。簡単な自己紹介をして、談笑していると、唐突に「あなたたちはどのような肉を食べるのか?」と聞かれた。なんとなく質問の意図を察しつつも、「なぜそんなことを聞くんですか?」と尋ねると、「だってコロナは食べ物が原因で発生したんでしょう」と言われた。私はどうしたものか、と思いつつ「そういうことは言わない方が良いですよ」と一言だけ返してその場を去った。

このような食についての質問は、新型コロナウイルスの発生前にもされることはあったが、感染拡大後に特に頻繁に聞かれるようになったように感じる。その中には、「あなたたちは何の肉を食べるのか」「中国人は何を食べているのか?」「日本人も中国人のようになんでも食べるのか?」などの質問が含まれる。おそらくその背景には、動物が新型コロナウイルスの感染源であるとの報道がなされたこと、そしてそれらの動物を食することはイスラームのなかでハラーム(禁忌)であるということなど、様々な要素が存在しているのであろう。私はこのような質問をされるたびにどのような返答をしてよいものか迷い、そして時には腹立つ思いを抱えてきた。

3月12日(国内感染者数21件)、カラーチーからラーホールに戻った。ラーホールの空港に着いて、あらかじめアプリで予約しておいた登録制タクシーに乗り込んだ。ラーホールではM先生のお宅(I大の構内にある宿舎)に泊まらせていただいた。運転手に行き先を告げると、「I大に行くのか?あそこはコロナが出たって噂だぞ」と言われた。同時に、運転手はWhatsApp(チャットアプリ)で友人から送られてきたという音声データ(ウルドゥー語)を聞かせてくれた。あるタクシードライバーの証言のようなもので、「客を乗せてI大に行ったときに救急車が出てくるのを見た、あそこに近づいてはならない」と言っていた。道中インターネットを使って調べると、どうやらフェイクニュースのようであった。

I大のM先生宅に着くと、M先生の妻Nに迎えられた。タクシードライバーにI大で新型コロナウイルスが流行っているという話をされたと言うと、「それはフェイクニュースね。トルコに研修に行っていた学生が帰ってきたんだけど、彼らはみんな検査の結果陰性だったのよ。」と言っていた。しかし、I大で新型コロナウイルスが流行しているという噂は広まっていたようで、後日大学のホームページに「本学では新型コロナウイルスの患者は発生していません」との旨が記されていた。

急に深刻度が増した新型コロナウイルス
3月15日(国内感染者数53件)より、パンジャーブ州の全教育機関が閉鎖されることになった。当時は4月までの措置であったものの、結局9月現在になってようやく教育機関が再開されつつある状況である。その後も細かな用事があったため、私は変わらずラーホールに滞在していた。この頃は感染状況を注視しつつも、外出は特に控えていなかった。ただ、マスクは必ず着用するようにしていた。M先生ご一家も、外出を控えている様子はなかった。

しかし、その週の中盤に差し掛かったあたりで、急激に新型コロナウイルスの感染者数が増加し、それにつれて国内の雰囲気がガラッと変わったように感じた。街に出るたびにマスクを着用する人の数が増えていっているのがわかったし、手指の消毒薬には相場の2、3倍の金額が付されていた。マスクはすでに手に入らない状況にあった。そんななかで、私にとって印象的だったのは、M先生の妻Nとのやりとりであった。

3月19日(国内感染者数454件)、私は調査村へ帰る前に食料品の買い出しをするため、近くのショッピングモールに出かけようとしていた。しかし、外に出かける前にNに相談すると、ショッピングモールのようないろいろな人が来ている場所は感染の危険性があると説得された。結局私はショッピングモールへゆくことを諦め、大学内の売店で買い物を済ませたのであるが、数日前まで普通に出かけていたNが外出に対する態度を急激に変えたことに驚かされた。そして、それほどまでに、新型コロナウイルスの感染拡大はパキスタン国内に恐怖やパニックを引き起こしているのだと感じた。

図 5 ショッピングモールの写真 2020年1月30日 筆者撮影
図 6 ラーホールの薬局のカウンターに張られたビニールシート 2020年5月1日 筆者撮影
図 7 ラーホールの薬局に設置された規制線 2020年5月4日 筆者撮影

3月22日(国内感染者数776件)、2週間ぶりに調査村へ戻った。今回は自分だけの車をチャーターすることができたので、服装については特に気を遣わなかった。村の近くまで来た時に、リキシャ(三輪タクシー)の運転手やバイクに乗った人がマスクをしているのを見て驚いた。シリアスなのは都市部だけで、感染者が出ていない村ではそうでもないだろうと思っていたからである。でも実際はそうではなく、村の人々も十分にウイルスを恐れているようであった。その背景には、テレビや携帯電話の普及があるのであろう。

村に戻ってから2週間程度、私はラーホールから来たという理由で外出を自粛していた。その間にも状況はどんどん変わっていき、3月24日(国内感染者数972件)からはパンジャーブ州においてロックダウンが実施された。この日、村の近くにある墓地で遊んでいた子供たちを注意しに来た警察と村の若者が揉めて、殴り合いのけんかになったそうだ。その結果、先述の村の友人Kの親戚が警察に連行された。その後すぐに解放されたそうだが、ロックダウンは都市部だけではないのか、と私はかなり衝撃を受けた。




図 8 調査村の様子 2019年12月2日 筆者撮影

図 9 調査村の様子 2020年4月14日 筆者撮影

変わりゆく状況―村内の変化と私の変化
ロックダウンが実施されてからも、調査村近隣の町にある野菜や肉などの食料品を扱う屋台は時短形式で営業していたため、食料の調達には困らなかった。実際、村の外部で行われる集会などは取り締まられていたものの、村の内部での取り締まりは行われておらず、村内では相変わらず自由に人が歩いていたし、金曜礼拝の時にはモスクに人が集まっていた(都市部においても、完全な外出禁止令が敷かれたわけではなく、規制はあるものの全く外に出ることができない状況ではなかったようだ)。それでも、感染拡大に伴って、村内において起きた変化がいくつかあった。

そのうちの一つが、アザーン(イスラームにおけるお祈りの呼びかけのこと)の回数が増えたということである。通常は1日5回、村のモスクのスピーカーを通じて村のイマーム(イスラームにおける宗教指導者)がアザーンを詠唱するのであるが、感染が爆発的に拡大し始めた3月末(3月31日の国内感染者数1938件)から、その回数が1日6回程に増えたのである。具体的には、イシャー(季節によるが大体午後8時から9時頃)のアザーン後、午後10時ころにもう一度アザーンが流れていた。さらに、村内のモスク放送にて、イシャーのアザーンの時に、村の男子は各自屋根に上ってアザーンを詠唱するように、というお達しが下されたため、イシャーのアザーンの時間になると、各方面からアザーンを詠唱する声が聞こえてきた。

それに加えて、4月頃にモスクから説教が流れるようになった。通常は週に1度、金曜礼拝の後に説教が流れることが多いが、この時期は毎日のように説教が繰り返された。そこには、アッラーに許しを請いなさい、という言葉に加え、手を洗いなさい、家を掃除しなさい、という、ウイルス対策の内容も盛り込まれていた。私の借りている空き家は、モスクのスピーカーのちょうど先にあるため、村内で一番といっていいほどの音量でアザーンや説教が聞こえてくる。その時期家に籠ることの多かった私は、毎日のように聞こえてくる説教に正直辟易してしまっていた。今思えば、外出できないストレスや、日本への一時帰国が叶わないかもしれないという不安より、なによりモスクからの放送に心を悩まされたように思う。

ちょうどその頃、日本では新型コロナウイルス感染者数の(第一波)ピークを迎えており、私の家族や友人たちもその渦中にいた。各都道府県にて外出自粛が要請され、在宅ワークになる人も多かった。そんななか、日本の友人たちとZOOMやLINEなどの通信手段を用いて「オンライン飲み会(私の場合はソフトドリンク)」と称した集まりを催すことが次第に多くなっていった。さらに、私の所属する研究科でもオンライン授業が始まったため、ゼミにも参加することができるようになった。このように、感染拡大以前は海外渡航中に参加することのできなかった「飲み会」、授業、セミナーなどに、調査村から参加することができるようになったことは、調査者の私にとっての大きな変化であると述べたい。

(その2に続く。)

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