はじめに
私は2019年11月より翌年2月末まで中国雲南省のある自治州に滞在していた。渡航目的は少数民族タイ族の声と文字の文化、そして織物など民間工芸に関する研究交流だった。面積が秋田県ほどのこの州でも1月末から5名の感染者が確認されて厳戒態勢がしかれた。私は帰国までの1か月間、外出自粛を余儀なくされた。このエッセーでは、私が目の当たりにした現地の移動規制や、人々の主体性、そして災禍における文化のあり方について記したい。
背景
WeChat(微信)という中国版SNSを見ると、私の友人のつながりのなかでは、2019年12月下旬には感染力の強い病気が流行しているという噂が飛び交っていた。やがて1月に入り国内メディアでも情報が解禁され、一斉に武漢を中心に新型肺炎が流行していることが報道されるようになり、全国各地の感染者・疑似症患者・濃厚接触者・検査結果待ちなどの詳細な統計が刻々と発表されるようになった。テレビでは、国内外の記者の質疑応答を含めた公式会見が毎日中継され、そのほかに武漢の医療が崩壊を起こしているニュースや、院内感染に苦しみながら必死に治療に当たる医師たちの様子まで赤裸々に報道された。また、ウィルス流行を警告した武漢の医師たちが12月に不当逮捕されていた事件と、隠ぺいをはかった地元政府役人たちの処罰も報道された。
雲南省における新型コロナウィルスの感染者数は185名確認された(2020年6月現時点)。1月23日、中央政府は武漢の都市封鎖を宣言したが、私が滞在していた地域はまだ1月25日に迎える春節の準備に活気づいていた。しかし、24日午後に州内でも感染者が確認されたという噂が流れ、緊張感が高まった。夜には地元政府がSNSやテレビを通じて感染者に関する情報公開に踏み切った。報道では、1月20日に武漢から車を運転して22日に入境した旅行者2名が23日に体調不良を訴えて入院し、新型コロナウィルスの感染を確認したとあった。その数日後には、1月17日にマレーシア旅行から帰国した女性が22日に入院、26日に感染が確定され、その家族2名も29日に陽性反応が検出されたと発表された。感染者の滞在先や居住地域は封鎖され、濃厚接触者は隔離されたという。
移動規制、村の閉鎖
私が春節の祝祭ムードの変化を実感したのは春節2日目の1月26日だった。私はホストファミリーと共にD村の親戚を訪ねて新年の食事会に参加していた。昼食後、親戚の一人がスマートフォンを取り出し、SNS上で隣のN村が25日に村を閉鎖したという動画と写真を見せてくれた。しばらくするとD村の公共スピーカーが鳴り、村長が新型コロナウィルスの流行を懸念し、村人の外出規制を検討していること、出稼ぎや学生の帰省者のリストをつくることを通達した。
例年、タイ族は春節初日を自宅で過ごし、2日目以降、親戚や友人を訪問して新年の挨拶を交わす。また、この時期は農閑期であり、在家の上座仏教信者による積徳儀礼や、結婚式、村の仏教寺院の新築儀礼など、様々な祝い事が多く開催される。しかし、今年は数日と経たないうちに、SNS上で率先して結婚式や儀礼を中止するという投稿が見られるようになった。仏教書の朗誦師・創作師であるホストマザーのもとにも儀礼依頼者から延期の連絡や相談が寄せられた。のちに地元政府は、4人以上での集会や飲食の禁止、外出時のマスク着用などの徹底をメディアやSNSを通じて呼び掛け、町や村のあちらこちらに漢語と少数民族の文字、そしてビルマ文字(ミャンマー人の出稼ぎ労働者も多いため)を併記したポスターを貼った。州内外を結ぶ高速道路は封鎖され、州内でも県や市の境では1月26日から厳しい検問が行われた。
N村の閉鎖は自発的な決断だったという。当時、私は村の閉鎖というのは何かの冗談か、政府の指導かと疑ったが、N村の村長たちの危機管理意識は高かった。もちろん村や地区の閉鎖は全国各地で起こっていた。ネットで「封村」などのキーワードで検索すると、様々な報道を見ることができる。初期には武漢市周辺の村などで外からウィルスを持ち込まないようにという防御意識から自主閉鎖が行われ、土砂や丸太、車など、さまざまな物を用いてバリケードが築かれている事例が多く見られた。1月28日の全国向け公式記者会見では、中央の公安トップが、バリケードを構築した道路封鎖は緊急車両の通行を妨げる恐れもあると警鐘を鳴らした。
N村の自主閉鎖は、ウィルスを外から持ち込ませないためというより、万一を考えて感染者を内から外へ出さないという意図があったようだ。というのは、他の村に比べてN村は人口が多く、帰省した出稼ぎや学生も多数いたためだった。この行動に続くようにいくつかの村も自主的に閉鎖に踏み切ったらしい。D村の場合は、春節2日目から村人の外出自粛を呼びかけるようになったが、2月1日に地元政府から移動規制を要請されて正式に村を閉鎖するようになった。もちろん村人のなかには、空路も高速道路も制限されているのだから村の閉鎖は不要だと意見する者もいた。村に出入りする四方の道路には24時間村人が交代で車や人の出入りをチェックするようになり、その状態が3月はじめまで続いた。当初、地元公安は各村を巡回し、外出規制に従わない者がいれば罰金を課すほど厳しく管理した。
この数年は自家用車が増え、平時から小さな町や主要道路でも渋滞が起こることもあるのだが、今年の春節の村や町は不気味な静けさに包まれた。バスもタクシーも、一般の商店も3月上旬まで1か月以上も営業停止が続いた。営業が許可されていたのは、生鮮市場やスーパーマーケット、日用品等の小売店、薬局だけだった。規制期間後半には一部の飲食店がテイクアウト販売のみを行うようになった。いつも早朝からにぎわう市場では、生きたままの鶏や鴨の売買は禁止され、村から外出できない農家が多いせいか売り手は少なく、物価が上昇した。そして、市場では山の幸をまったく見かけなかった。聞いた話では、山地の村は外出規制の監視が非常に厳しく、1か月以上農作物を市場で売ることもできなかったという。移動規制は日を追うごとに厳しくなり、数日後には、町を中心に、全国各地と同じく、公共機関、市場、商店、居住区、マンションの出入口などいたるところにQRコードが貼られるようになった。どうやら省ごとに構築されたシステムは若干異なるようだが、すべての個人の移動記録の蓄積のために、スマートフォンの読み取り機能を活用して入出記録をつけなければならなかった。
私は帰国するまでの1か月、数日おきにホストマザーと食料の買い出しのために市場へ行く以外、外出することはなかった。買い物の朝方、私たちはボランティアの活動をよく見かけた。長期休暇になった公務員などを中心にボランティアが組織され、町や村を巡回してマスク着用を指導したり、高齢者にビラを配ったり状況を説明したり、検温機器で体温を測ったりする活動を行っていた。SNSやメディアでは、村の子供たちが老人のもとを訪ね、マスクや手洗いの啓蒙活動を率先して行っていたという話も紹介された。これまで中国メディアでは、共産党員の親身な活動はよく紹介されていたが、近年では「愛心団」などと呼ばれる10名程度の私的なボランティア団体による活動が地方の田舎でも活発化していた。政府のプロパガンダを疑いもしたが、愛国教育を掲げてきた中国だからこそ、国家の非常時に助け合いの精神がいっそう刺激されたのだろう。処理しきれなくなった農家の野菜の買い取りや、省外への寄贈、特別輸送なども助け合いの例として報道された。
自粛生活と文化
今回、WeChat(微信)のようなSNSが人々の自粛生活に大いに役立った。公的機関はSNSを通じて逐一情報を発信した。親戚や友人は直接会えない代わりにSNSを通じて連絡を取り合ったり、近況を報告したりした。投稿のなかには様々な噂も飛び交った。不足するマスクの代替にペットボトルやヒョウタン製マスクをつける冗談めいた写真もあれば、生のコウモリにかぶりつく不謹慎な動画、麻雀卓を囲んでいる輩の家にガサ入れする警察当局の映像などもシェアされた。
少数民族の中高年のあいだの暇つぶしといえばSNS上での即興歌の掛け合いだった。SNSが普及した頃から、各地の少数民族の中高年が興じるようになっていたが、今回、暇を持て余した人たちが即興の歌をボイスメッセージとして録音し、チャットで掛け合う遊びがひそかに流行した。若かりし頃のような男女の出会いや恋歌の掛け合いに始まり、時事を交えた歌がやり取りされた。私のホストマザーは機知を競い、新型コロナウィルスやその衛生対策について歌を掛け合った。すると、彼女は市井の人たちが必ずしも正しく情報を理解していないと感じ、すぐに詩を創作執筆し、それをスマートフォンで録音して投稿した。予防策や衛生観念の改善などを呼びかけた歌は、すぐに地元テレビ局に伝わり、ホストマザーのもとに音源をインターネットとテレビ、ラジオの番組で正式に使用したいというオファーがきた。こうして彼女は他の歌仲間を誘って改めて数篇の詩を創作、録音して渡した。
中国ではもともと伝統芸能や芸術を用いた政策や法律の普及活動が積極的に行われてきたため、今回も同様の活動が全国各地で見られた。とくに、政府公認の少数民族の伝統文化伝承者を起用した投稿はSNSで多くシェアされた。また、少数民族や漢族の若いミュージシャンも、それぞれの言語で作詞したロックやポップスの新曲を発表していた。今でもインターネット上で検索すれば、各地の様々な伝統芸能による激励や衛生対策などに関する映像や音源を見つけることができる。
この災禍のなか、あらゆる文化活動や慣習は自粛という制限を受けたが、私がもっとも複雑な思いを抱いたのは葬儀だった。自粛生活1か月のなか、私は2人の恩人と死別した。2人とも新型ウィルスとは無関係の死因だったが、あらゆる集会の禁止が通達されていたために、恩人の1人の葬儀に参列することができなかった。そして亡くなったもう1人は80歳を過ぎた私のホストファザーだった。彼は私が帰国の途に就く2日前に逝去した。ホストファザーはおそらく脳梗塞のため明け方に意識を失い、私は救急車が到着するまで救命活動を行ったが、帰らぬ人となった。救命士は簡単に脈の有無を調べただけで、もし死因を調べたければ病院へ搬送するが、現在は非常事態なので遺体はそのまま火葬場へ送られると述べた。
私たちは自宅で葬儀を行うことを希望し、近しい親戚だけに連絡した。通常なら3日ほど大勢の親戚や友人の弔問を受け、食事を振る舞い、男たちは寝ずに酒盛りを行うのだが、今回は翌日に火葬しなければならなかった。全員がマスクを着用し、ささやかな葬儀を行った。食事の際も、親戚と食卓を囲まず、簡素な料理を各自距離をとって独りで食べなければならなかった。正直、私は悔しかった。新型ウィルスはこの地域でわずか数例しか確認されていないのに、これほどまでに行動が制限されなければならないのかと。当日、わざわざ地元行政の許可を得て遠方より駆け付けてくれた親戚もいたが、来訪者のなかには葬儀であっても集会は好ましくないと警告しに来た人もいた。厳しい規制の状況下だったが、親戚たちのおかげで葬儀を無事終えることができた。
おわりに
様々な批判も起きているが、SARSの流行を経験知として有していた中国は、全国規模で徹底的な行動制限を実施し、人々も足並みをそろえて受け入れ、一丸となって感染収束に取り組んだ。人との接触は制限された代わりにSNSが個と個をつなぎとめる役割を大いに果たした。個々の自粛生活に関する大量の投稿は、相互に自粛生活を強制し、監視しあう影響力も発揮したが、家族や友人を気にかけあい前向きに生きようと人々を励ましもした。N村の閉鎖や、ホストマザーたちの呼びかけの歌は、身の回りのつながりから社会を少しでも良くしようとする主体性にもとづいた行動だったし、それらに触発された活動も広がった。ホストファザーの葬儀は制限されたが、親戚たちのおかげで私たちは工夫して死者と生者それぞれの道徳的、宗教的美学に背かない葬儀を執り行えた。村によっては、このような時だからこそと、あえて村をあげて精霊に供物をささげたり、仏教寺院で祈りをささげたりする儀礼も行われ、SNSを通じて私たちを励ましてくれたのだった。たとえこうした行動や願いがささやかなものだとしても、現実に向きあおうとする人々の主体性は、世界の誰かを勇気づけ、これからも連鎖して広がっていくと信じている。
関連ウェブサイト
「傣语诗歌《新冠状病毒防控 人人行动起来》」
徳宏州のタイ族、晩相牙さん作詞・朗誦の韻律詩を紹介したウェブサイト
「「云南边境歌手一曲《新冠肺炎防护歌》满满正能量,为中国加油」
臨滄市のタイ族、アイグン(岩更)さん作詞作曲・歌の映像サイト
「云南山歌王喊麦,3万村民听歌学防疫」
昆明市の王喊麦さんによる山歌(漢語の歌)の短編映像