世界のフィールドから From "Fields" around the World

2025年7月号

海を渡った日本人に思いを馳せて

小宮理奈 (東京都立大学社会人類学教室)

専門:移民・難民研究、フィールド:タンザニア・米国

私は移民・難民研究を志し、タンザニアの難民キャンプから米国に渡ったコンゴ民主共和国出身の難民を主な調査対象としている。ありがたいことに最近は大学で教える機会をいただき、移民・難民に関する講義を担当している。

しかし学生と接するなかで感じたのは、彼らにとって移民や難民がどこか遠い存在であるということだ。日本は実際には移民大国であり、コンビニをはじめ日常生活のなかに移民の存在は確実にある。それでも学生が移民を身近に感じないのだとしたら、「今の社会をよく観察する」というアプローチだけでは不十分なのかもしれない。そこで私は、日本人自身の海外移住について考えることで、移民問題をもっと身近に感じてもらえないかと思い、フィールドワークの合間に米国シアトルへ足を延ばした。

シアトルの日本街は、1890年代から第二次世界大戦中にかけて、日本からの移民が築いた一大コミュニティである。商店や飲食店、ホテル、劇場、銭湯、集会所が立ち並び、1930年代の最盛期には約8500人が住む活気ある街となった。しかし1941年、日本軍が真珠湾攻撃を行うと、米国政府は日本と戦争状態にあることを理由に、日系人を「敵性外国人」とみなし、西海岸地域を中心に約12万人の日系人を強制的に内陸部の収容所へ移送した。

私が訪れたのは、日本から単身渡米した出稼ぎ労働者が長期滞在した「パナマ・ホテル」である。1942年当時の経営者タカシ・ホリ氏は、強制収容により移動を余儀なくされた日系人たちの所持品を、ホテルの地下室に保管することを申し出た。現在、ホテル内のカフェの床がガラス張りになっており、訪れた人々はそのガラス越しに、今も帰らぬ持ち主を待つ荷物の数々を見下ろすことができる。

海を渡り、異国で懸命に生き抜いた日本人、そして戦争によって再び強制的に移動を強いられた人々に思いを馳せることが、学生にとって移民・難民問題をより身近に考えるきっかけになればと願っている。

撮影フィールド

米国シアトル

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